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🗞️ Peripatetic Chronicles

日常・旅・思索の断章

日本語 20篇 概ね隔週更新

自分だけの宇宙 「煩わしいと思うかどうか、なんですよ」 耳鳴りの専門医は、私の左耳を見ることもなく、 ▸ 続きを読む

「煩わしいと思うかどうか、なんですよ」

耳鳴りの専門医は、私の左耳を見ることもなく、ボソリと言う。

「そうですよね」

私は返事しながら、心の中で自分自身に「そうですよね、じゃないよ」と突っ込む。そして医師に形だけの礼を言って診察室を後にする。

これは数ヶ月に一度繰り返されるルーティーンだ。

耳鳴りは、三年ほど前に、突然、左耳だけに発症した。聴力そのものには問題はなく、耳の奥の脳みそのどこかで、いつも航空機のジェットエンジンのような滑らかな回転音が響くようになった。今は、風に流れる霧を音にしたらこんな感じだろうか、などと思ったりもする。

当初は、片耳だけという不快感からパニックにも陥ることがあったが、急を要する問題がないことを告げられ、慢性的だがさほど不便はさほどないと自覚すると、楽になった。自分の身体左半分だけが深い森の中に入り込んでいるような、どちらからというとポジティブな気分になることさえある。何かに集中している時には、耳鳴りは全く聴こえない。

辛いのは、無音のエレベータの中や、一定時間の無音が演出される映画の静的シーンに遭遇するときなど。この世界にある音というものは、自分の左耳の奥のジェットエンジン音だけだ、などと考えてしまうと、それは煩わしさであり、時には恐怖になる。

耳鼻科には二年ほど前から通っているが、一般的な聴力検査以外は、「前回からどれほど煩わしいと思ったことがあったか」というようなセルフチェックだけが行われる。

「もしかして、一生治らない可能性はありますか?」

「外科的な治療というものはありますか?」

私のそんな質問には、医師は何も答えない。

「これは治療なのか?」

そんな疑問が首をもたげるが、専門医に「煩わしいと思うかどうか、なんですよ」と言われると、「そうじゃない。リアルになんとかしてください」と思いながらも、ただ、「そうですよね」と返事をしてしまう。そして、それによって妙に落ち着く。

そもそも本当に耳鳴りはしているのだろうか? 考えてみれば、それは自分以外の誰にもわからない。医師にもわからない。いや、自分自身でさえもよくわからない。

聴こえている、というのは一体どういうことなのか? 空気の振動で鼓膜が震えることを指すのか、その信号を脳細胞が認識することを意味するのか? 聴力が正常で、耳鳴りだけがする、というのはどう理解すべきなのか? 全くわからない。

ただそこに、自分の左半分に、自分だけが知覚できる宇宙が広がっている。それだけは確かだ。医師の言うとおり、それを煩わしいと感じなければ、それは正常な自分自身の一部であり、自分だけのものなのだ。

ああ。あの専門医の治療は、耳鳴りそのものをなくすのではなく、自分の身体に対する私の意識を変えることだったのか。そのことに、今、ようやく気づいている。

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プノンペンの豪雨 プノンペンに到着した翌日、旅の目的だった予定がキャンセルになり、することがなくなった。 ▸ 続きを読む

プノンペンに到着した翌日、旅の目的だった予定がキャンセルになり、することがなくなった。何度も訪れている街なので、今さら観光スポットを巡る気にもならない。そもそも今は、雨季の真っ只中だ。

安ホテルの部屋は終日留まるほど快適ではないし、正直、人の気配も恋しい。周辺のカフェで本でも読もうかと思ったが、午後はスタッフが本格的に休憩したい時間帯なのだろう。あまりに閑散としていて、逆に落ち着かない。

そういえば、街の中心部のはずれに市場があったような気がする。散歩がてら、とりあえずそこに向かってみようか。付近のレストランの食事にはあまり期待できないけれど、市場なら夕食の食材が何か手に入るかもしれない。スコールに見舞われることも予想できたが、傘は持たずに歩き出した。街歩きは手ぶらが気楽だ。

20分ほど歩いた先にあった市場は品物と活気に溢れていた。野菜、肉、魚、生花、手作りの惣菜、菓子、乾物、衣類、生活雑貨まで、ありとあらゆるものが所狭しと並んでいる。生鮮品は概ね新鮮だ。

高い天井のフロアを進むと独特の匂いが鼻をつく。通路を進むごとに品々が変わり、その刺激が少しずつ変化していくのが面白い。売り手も様々だ。若い女性が小さな子どもを足元で遊ばせながら商売をしている。年齢さえ意味を持たないような風貌の老人もいる。全くやる気のない表情でスマホをいじっている若者の姿もある。

買い物客もまた多様だ。レストランの仕入れ担当らしき人物が食材を吟味している。卸売業者風の男が同じ品物を大量にまとめ買いしている。家族連れの個人客の姿も多い。皆、表情は明るく、市場全体に活気がみなぎっている。

その時、突然、地割れのような雷鳴が轟いた。数秒後、市場の屋根を押し潰す勢いで豪雨が空から落ちてきた。店の売り子や来場者の声がかき消されるほどの音量だ。

しかし多くの人たちは、しばらく何事もないように商売と買い物を続けている。

市場にたった今到着した人や、たまたま通りかかった人たちが、雨宿りに建物の中へ入ってくる。ドアがあるわけではないので、品々の向こうの入り口付近に雨宿りする人の濡れた頭があり、そのさらに向こうに降り止まない雨が広がっている。

気がつくと、入り口付近の通路が完全に水浸しになっている。市場のすぐ外側で、おそらく許可を得ずに商売をしていた簡易的な屋台は、店を一時的に撤収していた。足元が水没し、この豪雨の中で客が来るとは思えないのだろう。しばしの休憩といったところか。

雨は降り止まない。市場にいた猫が、諦めたような表情で、台の上に寝転んであくびをしている。

豪雨が長引いているからか、市場の中には、わずかに手を休め、入り口の外の空を見ている人も増えてきた。

30分ほどが経った。雨脚はさほど弱まっていないのに、数人の男たちが、レインジャケットも着ないまま、もう待ちきれないという様子で動き出す。荷台に縛りつけた大量の荷物をビニールシートで雑に覆って、スーパーカブにエンジンをかけている。

バイクのタイヤの一部が完全に水没するほど、雨水が溜まっている。近くの側溝が溢れているのかもしれない。

それから30分ほどで、雨が突然止んだ。燃料切れのような、唐突感がある。

半ばフリーズしていた市場の営業と来場者が、映像の再生ボタンが押されたかのように、ゆっくりと動き出す。平常に戻ったように、買い物を再開する人、荷物を持って家路に着く人、新たに訪れる人たちが交差する。売り子たちは、天井の雨漏りの水に濡れた品々を拭くでもなく、商売に戻っている。

撤収していた場外の屋台は、すでに再開している。

道路がまだ完全に水没している以外は、市場はほぼ降り始め前の姿に戻っていた。人々も笑顔になっている。

建物の外に出ると、雨上がりの空には少しだけ夕焼けが始まっていて、吹き抜ける風は数度温度が下がっているのが肌でわかる。ここから、またゆっくりと夜が始まるのだ。やはり食材は買わずに、夕食は近所の安食堂で済ますことにして、手ぶらで大通りに向かって歩き出した。

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信頼と超越のシステム 予約したフライトが、大雪で欠航になった。使用する機体は搭乗ゲートは姿を現さぬまま、 ▸ 続きを読む

予約したフライトが、大雪で欠航になった。使用する機体は搭乗ゲートは姿を現さぬまま、アナウンスが淡々と事実を告げた。どうにか翌日の便を予約し直したが、その後も雪は止まない。日が変わり再び空港へ向かうと、振替便は四時間近く遅延し、今度は搭乗を済ませた後、機長判断による欠航が告げられた。

驚いたのは、誰も慌てたり怒ったりしなかったことだった。初日も翌日も、出発ゲートでも機内でも、困惑の表情を浮かべる人はいるものの、身勝手な主張をする人は一人もいなかった。予定が狂い、旅の計画を失った人は多くいたはずだ。それでも皆、この暴風雪では仕方がないと現実を受け入れていたのだろう。そこには自然への畏敬だけでなく、航空会社への静かな信頼があるようにも思えた。

高度一万メートルの虚空を、数百トンの物体が飛ぶこと、それを数千円から数万円で利用できることは奇跡的と言ってよいのではないか。空洞の構造体——最新鋭の機体は炭素繊維と合金でできていて、中空の翼と胴体には燃料と人・貨物が収まっている——が、計算し尽くされた設計で空を切り裂いていく。

航空機が飛ぶことは、重力への静かな抵抗に他ならない。絶対的な物理法則に対して、人間は計算と信頼という二つの軸で立ち向かっている。人が太古から夢見た「鳥のように空を飛ぶ」行為が実現したのは、わずか120年ほど前の出来事だ。この壮大な抵抗は、まだ始まったばかりなのだ。

現代の航空会社は、ある種の共同幻想を維持する装置として機能している。彼らは安全という抽象的な約束を運航スケジュールに落とし込み、それを商品として販売している。単なる移動手段の提供ではない。それは、利用者の不安を最小化し、目的地への到達を保証するという、安全の抽象化をめぐる契約である。

地上で働く整備士、管制官、グランドスタッフたちの仕事には独特の信念があるのではないか。彼らが追求するのは、「何も起こらない完璧さ」だろう。飛行機が定刻に飛び立つとき、彼らは称賛されるべき半透明で静寂な存在だ。

運航・客室乗務員たちは、地上と空の境界で日常性を保持する役割を担う。高度一万メートルという極限的な空間で、保安要員としての緊張感を保ちながら、細やかなサービスの提供で乗客の不安を和らげる。それは、日常を演出する洗練された実践であり、利用者との共感を生み出す。

雲の上から見下ろす地上は、抽象化された風景だ。そこで生きる人々の顔は見えない。しかし、飛行機を飛ばし続けているのは、まさにその匿名の人々である。地上からもパイロットや乗客の顔は見えない。しかし空を切り裂いて進んでいく。航空という営みは、匿名性の中で成立する信頼の純粋な形なのだろう。

私たちは、顔も名前も知らない誰かを信じて、空に身を委ねる。その信頼はほとんど裏切られることがない。それは、人間が築き上げたシステムの美しさの証明だ。

二度の欠航を経て、最初の予定から三日遅れでようやく高度一万メートルに達した。それは大幅な遅延ではなく、ゆっくりとした前進だったと感じている。飛行機は、都市という巨大なシステムの片隅で、静かに運命を託すことを体験できる、信頼と超越のシステムなのだ。

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マンデーモーニング イギリスの経済誌が「ビッグマック指数」というのを発表している。 ▸ 続きを読む

イギリスの経済誌が「ビッグマック指数」というのを発表している。世界55ヵ国ほどの都市でマクドナルドのビッグマックがいくらで売られているかを比較し、各国の経済力と通貨の強さを測る指標だ。ビッグマックは世界中でほぼ同じ品質とサイズで提供されているため、単純な比較が可能になる。

私も長年、これに似た観察を旅先で続けてきた。ただし私が比べるのは、ファストフードの値段ではない。月曜の朝の新聞と、通勤する人々の表情だ。

世界の多くの都市では土日が休日で、月曜は休み明けの初日となる。この前提は、ビッグマックと同じようにほぼ世界共通だ。そこで私は旅先で月曜を迎えると、朝の繁華街や駅前に出かけていく。以前はキオスクで英字新聞を買い、今はスマホで現地のニュースサイトを開く。

月曜の朝刊には、週末に溜まった記事がまとめて掲載される。なかでも充実しているのが、ローカル情報と求人広告だ。どんな業界のどんな職種が、どの程度の給料で募集されているか。製造業か、IT産業か、金融か。国内企業か、外資系か。外資の大手が求人を出していれば、その国への進出が本格化していることもわかる。役職と給与を照らし合わせれば、標準的な生活水準も見えてくる。エントリーレベルの募集が多ければ、その産業が成長期にあるのだろう。

こうした情報を眺めながら、前の週に滞在していた隣国の状況と比較する。想像していたのと全然違う、と気づくこともある。ニュース記事よりも、求人欄のほうがその国の現在を雄弁に語っているように思える。

そして新聞から顔を上げ、通りの向こうに目をやる。バス停や駅のホームで、通勤のバスやトラムを待つ人々がいる。月曜の朝である。ここにも世界共通のものがある。「仕事、行きたくないな」という空気だ。

けれども、よく見ると違いも浮かび上がる。フレッシュな表情で朝日を浴びている人。待ち時間に本を読んでいる人。イライラした様子でスマホを操作する人。忙しそうに電話で話す人。そうした人々の数と比率は、国や都市によって驚くほど異なる。

ある街では、ほとんどの人が無表情でじっと前を見つめている。別の街では、笑顔で会話を交わす人が多い。またある街では、誰もがせわしなく動き回っている。同じ月曜の朝でも、その風景は一様ではない。

私はこうした観察から、その国の社会の一端を垣間見ようとしてきた。もちろん、目の前にあるものしか見ていないし、気候や国民性にも左右されるだろう。すべては個人の印象にすぎない。それでも、こんなふうに世界の片隅を覗き見ることは、旅人に許されたささやかな愉しみだと思っている。

知らない街で月曜の朝を迎え、新聞を開き、行き交う人々を眺める。そして世界をちょっとだけ俯瞰する。そんな時間が私は好きなのだ。

最近のビッグマック指数を見ると、日本は世界的にかなり低い位置にある。つまり、値段が安い。訪日旅行者にとっては嬉しいニュースだろう。そうして日本にやって来る彼らが、日本の月曜の朝も見ている可能性はある。駅のホームで、交差点で、私たちがどんな表情をしているかを。

私と同じような旅行者は、きっといる。私たちもまた、静かに観察されているかもしれない。

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北上と南下と○○バウンド 北東北に友人夫婦が住んでいて、数年に一度、ふらりと訪ねている。 ▸ 続きを読む

北東北に友人夫婦が住んでいて、数年に一度、ふらりと訪ねている。東京を拠点にしていた頃は、東北新幹線か東北自動車道をひたすら「北上」した。仙台を過ぎる辺りから、周囲の空気が明らかに変化していく。新幹線なら乗客が減り、車なら高速道路沿いの植生が荒々しく見えてくる。北へ向かっている——そんな感覚が確かにあった。

ところが札幌に住み始めて、すべてが逆転した。道南へ出て、津軽海峡を渡る「南下」の旅になったのだ。目的地は同じなのに、移動の方角が真逆になった。

ただの言葉の違いだろう、と言われたことは何度也有。しかし南から来るか、北から来るかは、思いのほか大きな意味を持つ。

北上して友人宅を訪ねるとき、そこは紛れもない北の土地だった。そのはるか先には、辺境と呼ばれるような地域や国境が続いている。冬の厳しさや、都市から離れた暮らしの手触りさえ容易に想像できた。一方、南下して降り立つときは、まるで印象が違う。そこは「より温暖な土地」であり、東京へ続く途上の一点でもある。気温だけ考えても、札幌と比べれば南国に近いと感じることもある。

場所は同じなのに、どちらから来たかで土地の意味が変わる。自分の立ち位置と視線の移動が、認識そのものを規定するのだ。

この感覚は、日本からヨーロッパへの旅でも現れる。たとえばパリやロンドンへ向かうとき、直行便か経由便かに関わらず、どんなルートで到達するかで、目的地が帯びる色彩は異なってくる。北回りのルートを選べば、北極圏の凍土を越えて文明の中心へ辿り着く感覚がある。南回りなら、熱帯の湿気を通り抜けて、涼やかな石造りの街へ入っていくイメージを抱く。どのルートで入るかによって、その街が自分の中で占める座標がずれていく。

日本語の「北上」「南下」という言葉は興味深い。同様に英語では、移動の方向性と相対性を端的に示す「-bound」という接尾辞がある。北行きならnorthbound、南行きならsouthbound。単純だが、視点の所在を明確にする便利な表現だ。

昨今、頻繁に耳にする「インバウンド」もその類である。inboundは「入ってくる」という意味なので、あくまで受け入れる側の視点に立つ。訪日旅行者たちは自国を「出てきた」わけだから、本来はoutboundである。自分たちをinboundだと考えている旅行者はいない。

だから、もし「Welcome, inbound travelers.」という看板があれば、そこには奇妙な矛盾が生じることになる。迎える側の論理で書かれた言葉が、迎えられる側への呼びかけにそのまま使われる。視点が交錯し、ねじれてしまうのだ。

この矛盾は些細なことかもしれない。しかし、私たちがどこから見ているのかという問いは、案外、私たち自身が何者であるかという問いと地続きなのではないだろうか。あらゆる認識は、見る者の立ち位置に依存している。

次はどこへ向かうか。どの方角から、どんな視線で、その場所に入るか。そう考えることで、旅の意味は決定的に変わっていく。そろそろ次の北東北行きのルートを考えようと思っている。Google Mapの画面を回転させて、これまでに見たことのない方向から目的地を眺めるのも楽しいかもしれない。

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西の海峡、あるいは曖昧さ 地中海の西端を渡るフェリーがスペインの岸壁を離れる瞬間、何かが抜けていく感じがした。 ▸ 続きを読む

地中海の西端を渡るフェリーがスペインの岸壁を離れる瞬間、何かが抜けていく感じがした。揺れではない。もっと微細な、重力の質の変化がもたらす感覚だった。エンジンの振動が背骨を伝って、自分がユーラシア大陸ではないどこかに向かっていることを伝えている。アルヘシラスの港が遠ざかり、私はジブラルタル海峡と名付けられた空間に入っていく。

船内は奇妙なほど日常的だ。破れたビニール座席、売店で売られる不味そうなエスプレッソ、床に落ちた何かのレシート。崇高な越境体験を期待していたのだが、現実は退屈な2時間弱の船旅でしかない。隣の席では若い女性が赤ん坊をあやしている。モロッコ人だろうか。彼女にとってこれは帰郷で、私には新たな場所への到達だ。同じ船に乗りながら、それぞれ異なる旅をしている。窓際の老人は定まらない視線を海原に向けていた。これまでの人生で、この海峡を何百回も往復してきたのかもしれない。

船内の最初の30分は、驚くほど長く感じた。海は変わらず灰色で、船窓の遠くにはまだ陸地が見える。トイレに立つと、廊下でアラビア語を話す男たちとすれ違った。そしてある時点で突然、時間が圧縮され始める。海峡の最狭部に差しかかっているのだろう。右手前にスペイン、左奥にモロッコの陸地が見える。それぞれ数十キロメートルの距離しかない。二つの大陸がこんなにも近くに向き合っているのだ。子どもが窓に張り付いて、何かを指差している。その先はアフリカか、ヨーロッパか、あるいは両者の狭間の潮流かもしれない。

周囲の光の質が変化したような気がした。本当に変わったのかどうかはわからない。スペインとモロッコは、あらゆるものが違うはずだと自分の中の何かが思い込んでいる。しかし海の色は変わらない。相変わらず灰色のままだ。視覚的な劇的な変化は、どこにもない。

船内アナウンスが流れた。スペイン語、次にアラビア語、そして英語。全く理解できないアラビア語だけが、旅の途中の自分を、言葉の重圧から解放していく。

これまでに無限の数の人たちがこの海峡を渡っている。古代フェニキアの商人、イスラムの征服者、追われた人々、希望を抱いた人々。そして、観光旅行者たち。私は今、その隊列の末端に加わろうとしているのだ。

モロッコ側のタンジェの街が見えてきた。そこに到達するのは、一体どの瞬間になるのだろうか。接岸の瞬間か。上陸の一歩を踏み出す時か。陸上の誰かと視線を交わす時か。あるいはその土地の匂いや音を感じる瞬間か。

船が減速する。エンジン音が変わる。人々が立ち上がり始め、荷物を手に取る。私もそうする。タラップが降ろされる重く乾いた金属音が、振動と共に船内に伝わってくる。

私は列に並び、ゆっくりと前へ進む。一歩、また一歩。どの一歩が境界を越える一歩なのかは、やはりわからない。

港の係員と目が合った。彼は私を見て、何かを判別したようだ。彼にとって私は今日何百人目かの、ヨーロッパから到着した顔でしかない。私にとって彼は、見知らぬ港で最初に目を合わせた人間だ。彼について判別できるものは何もない。旅先のコミュニケーションとはいつでも非対称なのだ。

タラップを降りた。熱いコンクリートに足がつく。ここがどこなのか、私にはすぐに認識できない。ジブラルタル海峡という曖昧な境界の先、アフリカ大陸の旅が、今、始まろうとしている。

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牡蠣のある場所に行く 東行きの道東自動車道が南富良野あたりに差し掛かると、降雪が激しくなってきた。 ▸ 続きを読む

東行きの道東自動車道が南富良野あたりに差し掛かると、降雪が激しくなってきた。11月の山間なら当然の光景だと思いながら、私はステアリングを握る手に少し力を込める。

高速道路といえど追い越し区間を除けば片側一車線で、対向車線との間には、背の低いフェンスかセンターポールが立てられているだけだ。大型トラックがサイドウィンドウのすぐ脇を走り抜けていく。荷台には獲れたばかりの牡蠣を積んでいる車両もあるかもしれない。トラックは札幌へ、東京へと向かうのだろう。私はその流れに逆らって、産地の厚岸を目指している。

目的地は厚岸の「牡蠣まつり」である。新鮮な牡蠣を食べるだけなら、高速の通行料とガソリン代を考えると、札幌で買ったり食べたりした方が安い場合もある。流通網が発達して、配送や宅配の手配も手軽だというのに、私は「食べ物を獲りに行く」という行為に惹かれて、産地の厚岸に向かうことにしたのだった。

厚岸周辺に着くと、山間の荒天が嘘のように晴れ上がっていた。気温は一桁だが、風は穏やかだ。町外れの公園にイベント会場が設けられ、地元の水産業者がテントを並べている。厚岸産の牡蠣、アサリ、ホタテが蒸し焼き、炭火焼き、生食用として売られていた。

来場者の大半は地元の家族連れのようで、まるで春の花見のような雰囲気だった。それぞれ公園内のスペースを確保し、持参した、あるいはレンタルしたグリルで食材を焼いている。ビールの缶が開けられ、笑い声も響いている。

私は観光客あるいは闖入者として、調理済みの牡蠣、アサリ、ホタテを購入して食べた。炭火で焼かれた牡蠣から湯気が立ち上る。磯の香りが鼻をくすぐり、口に含むと、濃厚な旨味が広がる。そこにあるのは、全ての人間が、同じ味覚と幸福感を共有しているという、不思議な一体感だった。

結局、口にしたのは四、五個程度だった。もっと食べられたが、目的は量ではないのだ。味は、信じられないくらい新鮮で美味い。あらゆる食材が自然につながっているように感じる。何度も、ああ、と感嘆と充足のため息をつきながら、以前に、道内の漁港で漁師から聞いた言葉を思い出す。

「北海道は魚介だ!って言っても、良いものは全部、まず札幌や東京に運ばれるんですよ。そっちの方が高く売れるから」

やはりそうか、と相槌を打つと、漁師は笑いながら付け加えた。

「でも、本当に旨いものは地元で俺たちが食うんだけどね。まあ、人には言わないけど」

厚岸から西へ向かう帰路、再び雪に降られた。ワイパーが規則的に動き、視界を確保する。私は先ほど味わった牡蠣の記憶を反芻しながら、時間と距離の向こう側には、確かに「本当に旨いもの」が存在していると実感する。

往路では、物流を逆向きに辿り「食べ物を獲りに行く」のは、狩猟採集の生活に少しだけ近づく行為、などと無駄に難しいことを考えていた。半ば雪に閉ざされた車内で、運転に少し飽きていたからか。実際には、話はもっと単純だ。それがどこであろうと、美味いものがあるところにただ、行く。そうして人は移動し続けるのかもしれない。少なくとも自分はそうするんじゃないかと思っている。

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バンコクへの来訪者たち 世界各地の歓楽街について見聞きするたび、多くの人は、さまざまな妄想と共に ▸ 続きを読む

世界各地の歓楽街について見聞きするたび、多くの人は、さまざまな妄想と共に「いつか訪れてみたい」という願望を抱く。私も例外ではない。それは根源的な旅の動機に通じる、本能に近い好奇心なのではないか。

ただ、そうした興味は遠くにあるからこそ掻き立てられるもの。手の届く場所にあると、むしろ足が遠のいてしまう。タイに住んでいた頃の私がそうだった。

首都バンコクは言わずと知れたナイトライフが充実した街で、望めば誰でも非日常を味わえる場所が数多くある。しかし私はすぐに、そうした場所の無軌道で解放的過ぎる雰囲気に飽きて、何となく避けるようになった。

その頃、日本から多くの知人が訪ねてきた。彼ら・彼女らは皆、ほぼ同じ行動パターンを辿った。

まず、明快な調子のメールか電話が届く。「○月○日に一人でバンコクに行くんだけど、ぜひ食事でも」

不思議なことに、訪ねてくるのは比較的社会的信用の高い職業に就く人たちばかりで、日本では個人的に食事をする間柄でもなかった。それでも遠路はるばりやってきて会おうと言ってくれるのは嬉しい。断る理由もなく、私は毎回「ぜひ」と答えた。

当日、待ち合わせ場所で落ち合うと、彼ら・彼女らは旅の高揚感をあえて抑えているように振る舞う。タイ料理店で食事をしたり、屋台のテーブルでビールを傾けながら、日本の近況を聞き、バンコクの事情をひと通り話す。すると皆、そわそわし始め、会話をじわじわと浮ついた方向へと向かわせていく。

私は内心「来たな」と思いながらも、あえてその後の具体的な行動予定に触れず、ビールを追加注文したりする(今考えると、ほとんど嫌がらせのようだ)。

するとどこかのタイミングで、彼ら・彼女らは、もう我慢できないという様子で堰を切ったように話を切り出す。

「はっきり言うけど、これから遊びに行きたい。安心して楽しめる場所に連れて行ってほしい」

その言葉には切羽詰まった響きさえある。

私が「明日も早いので、そろそろ帰りたい」という素振りを見せると、彼ら・彼女らはそれを察し、少し残念そうな表情でトーンを落とす。

「ああ、もちろん。全然大丈夫。自力で楽しむから、でも、あの。店の情報だけでも教えて」

そう口にしたことで、私に対して気まずさを感じるのだろうか。続けて、言い訳めいた言葉が出る。それもまた、いつも同じようなセリフだ。

「普段はこんな夜遊びはしないんだけど」「タイ独特の文化を研究したい」「人は時に解放が必要だ」

そこに各人の語彙や想像力、表現力の個性が滲み出るのが興味深い。しかし、伝えたいこと、すなわち遊びの目的はすべて同じなのだ。艶やかな吸引力というのは、かくも強大である。

そして私はいつも、彼らを適当な場所(すべて合法かつ社会的な常識の範囲内)へと送り出し、「まじめな大人は大変だなあ」などと呟きながら家路につく。

私が世界のどこかの歓楽街を初めて訪れる時は、そこに住む知人と再会した瞬間に「すごいとこ連れてって」と言いたい。刹那の遊びなら、アプローチも工夫したほうが、楽しみは増しそうだ。

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秘湯の代償 道北の狭い山道を車で走っていると、路肩の熊笹に半ば隠れて「ロテン→」となぐり書きされた ▸ 続きを読む

道北の狭い山道を車で走っていると、路肩の熊笹に半ば隠れて「ロテン→」となぐり書きされた木片を見かけた。道路脇に車を止めて矢印の指す方向を眺めると、背の高い雑木や草に覆われた獣道があるだけで、その先は深い森に埋もれている。

「ロテン」とは露天風呂のことだろう。温浴施設などではなく、森の中の野天の温泉に違いない。木片は地元の人か温泉愛好家が親切にも立てたものだと、根拠もなく考えて、森の中に分け入った。

虫刺されや野生動物との遭遇を気にしながら十分ほど進むと、硫黄の匂いがした。すぐに幅一メートルほどの沢に出た。細い丸太が架けられている。沢の向こう側には楕円形の小さな窪みがあり、中に溜まった温泉から湯気が立ち上っていた。岩の隙間から湧き出る熱水を誰かが見つけ、少し穴を掘って周囲に石を並べたのだろう。恐る恐る手を入れると、ちょうどいい湯加減だった。私は周囲に誰もいないことを確認して脱衣し、文字通り自然と一体になって湯に浸かった。ゆっくりと温まってから、満ち足りた気分で車に引き返した。北海道、最高じゃないか。

異変は半日後に訪れた。手足に痒みを感じ始めたのだ。痒みはどんどんエスカレートして、気づけば身体中に赤い斑点が出ている。全身が腫れぼったく、熱を帯びているようだ。さすがにこれは尋常ではない。

慌てて近くの町にある薬局に駆け込むと、薬剤師に「これは市販薬では無理なので、病院へ」と冷静に言われた。ただし町の診療所は決められた日にだけ医師が来るという。「病院」というのは、もっと大きな町にある総合病院のことだった。

地図アプリとカーナビが示した最寄りの総合病院は、百キロほど先のオホーツク海に面した町にあった。身体中が熱を持ち、息をするのも苦しくなってきている。行くしかない。不安を抱えながらもなんとか理性を保ち、総合病院を目指して車を走らせた。

病院にたどり着いた時にはすでに時間外で、当直の医師は外科が専門だった。私の皮膚を見て「うーん」と唸り、「点滴しましょう」と言った。

ベッドに横たわって点滴を受けていると、痒みや熱が引いていくように感じた。不安が和らいだせいか、眠気が襲ってくる。「時間かかりますよ」と看護師が言っていたので、このまま眠ってもいいのだろう。うとうとする中で、医師や看護師の会話がかすかに聞こえた。「温泉」「硫黄」「湿疹」という単語が耳に届く。私の症状は珍しいものではないのだろうか。そして「あんな山の中の露天の……」という声も聞こえたような気もしたのだが、その直後、深い眠りに落ちた。

数日後、症状はほぼ治まった。別の皮膚科医からは「硫黄皮膚炎、湯ただれだね。今度からpHが4.5より低い強酸性温泉は避けた方がいいかな」と言われた。

自分の皮膚が意外にも繊細で、こんな反応をすることを知れたのは良かった。それと同時に、北海道の自然が自分の想像以上に強力で、人間の都合などお構いなしだということも身をもって理解できた。地元の人にとっては、当たり前のことだと思うが。

あの野天風呂を再び訪れることはないと思う。それでもなんとなく気になって、道路脇の木片の位置や湯船の場所を地図アプリやウェブ情報で探している。しかしなぜか、どうしても特定できない。もしかしたら、あの木片も獣道も、最初から存在していなかったのでは? などと、小説の「夢落ち」のエンディングのような気分になっている。

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サンサルバドルのペスカード その頃、私はスマホやネットへのアクセスなしで、中米を彷徨っていた。 ▸ 続きを読む

その頃、私はスマホやネットへのアクセスなしで、中米を彷徨っていた。地図の空白を塗りつぶすゲームのように各国を訪れ、最後にエルサルバドルの首都、サンサルバドルにたどり着いたのだった。ハリウッド映画が刷り込む政治の腐敗や治安の悪さといったイメージは、旅人の視界には映らない。そこには、豊かな人々の暮らしが穏やかに流れていた。

ラテンアメリカの料理は、どれも情熱的で美味しい。だが、長い旅の中で、その単調なリズムに、私の胃袋はすっかり飽きていた。醤油の焦げる匂い、ごま油の香り、米酢のシャープな酸味などが恋しい。和食である必要はなく、舌は「アジアの味」を求めていた。

中米には、パナマ運河建設の歴史も関係していて、中華系の労働者の移民が多い。だが、サンサルバドルは例外らしく、街でもアジア系の風貌の人はあまり見かけない。中華料理店はデリバリー専門の小さな店はあったが、腰を落ち着けられるような店には出会えていなかった。

ある朝、どの街でもそうするように、中央市場へ足を運んだ。その土地の食文化や物価、衛生観念などを知るためだ。鮮魚売り場に差し掛かると、中年の男性が私をじっと見ていた。東アジアの顔立ちだ。視線が数秒交錯する。彼は何かを確信したように頷くと、大きな魚を一尾買い、雑踏の中に消えていった。

午後になり、宿の周りを散歩していると、裏通りに「中華」と書かれた看板がぶら下がっていた。なんだ、中華料理店があるじゃないか。なぜ今まで気づかなかったのだろう。夜だけの営業らしく、扉はまだ閉まっている。中庭に屋台を展開するような造りの店だ。店の奥で人影が動いた気がしたが、私はとりあえずその場を立ち去った。

夕刻、空腹を感じると、脳裏に浮かぶのはあの中華料理店だった。無意識に足がそちらへ向かった。

店は広く、テーブルも多い。だが、客は誰もいなかった。中庭の中央のテーブルにつくと、奥から料理人の格好をした男性がメニューを持って現れた。今朝、市場で目が合った人だった。

メニューは掠れた手書きのスペイン語で、まったく読めない。とりあえず英語で「エッグアンドレタスチャーハン」と「ホットアンドサワースープ」を注文する。男性は軽く頷いた後に、笑顔で「ペスカード」と言った。スペイン語で「魚」だ。

「ノー、グラシアス」と首を振る私を無視して、彼は「ペスカード・フリト」と復唱し、厨房に戻っていく。どうやら、魚料理が強制的にオーダーされてしまったらしい。

まあいいか、と諦めていると、注文したチャーハンとスープ、そしてレッドスナッパーが丸ごと素揚げにされた一皿が運ばれてきた。オーダーの経緯や値段を問いただすことも忘れて、料理に手をつけた。とにかく、魚が新鮮で美味しい。特別な料理法なのか料理人の技術か、その味付けはかなり上質な「アジア飯」だった。

驚きと充足感と共に完食すると、男性が再び厨房から出てきた。他に客がいないからか、どうやら私と話がしたいらしい。しかし、中国語の発声が苦手な私と、スペイン語も英語も(もちろん日本語も)得意ではないらしい彼との間には共通言語がない。

彼はポケットからボールペンを取り出すと、テーブルの紙ナプキンに、何かを書き始めた。漢字だった。

「我係福建佬嚟㗎。 以前喺香港、多倫多、紐約做過嘢,揸鑊鏟。之後就過嚟聖薩爾瓦多。 呢檔係我個竇。 你呢? 你係邊度人呀?」(俺は福建から来た。 前に香港、トロント、ニューヨークでコックやってた。 その後にサンサルバドルに来たわけ。 この店、自分の店。で、あんたは? どこの人なのさ?)

私は、その繁体字の連なりが広東語だと理解し、限られた中国語の知識を駆使して返答を書いた。

「先生、国際人! 我,由东京。 食事,美味。 魚,最高。 多谢!」(おじさん、国際人だね! 私は東京から。 食事、美味しかった。 魚が最高。 ありがとう!)

ナプキンの上で、漢字が往復する。私たちの間には、音のない会話が成立していた。すると、彼が最後にこう書いて、笑った。

「一早喺街市见到你,我就知你今晚实會来这个地方。 咪特登买咗嗰條鱼囉。」(市场里见到你,我就知道你今晚一定会来这里。 所以,我买了那条鱼。)

そうだったのか。それは料理人の勘、という言葉を超える特別なものだったのではないだろうか。異郷でたまたま出会った東アジア人同士が、目に見えない特別な符号を伝え合った、ということなのかもしれない。

旅先では時折、国籍や言語といった表層的なラベルの意味が、ふっと薄らぐことがある。あのサンサルバドルの夜は、まさにそんな瞬間だったようだ。

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豊富温泉 x 旅の言葉 昨年の夏、数十年ぶりに道北サロベツの豊富町を訪れた。 ▸ 続きを読む

昨年の夏、数十年ぶりに道北サロベツの豊富町を訪れた。

サロベツは北海道の北端に近い日本海側に広がる原野。沼地と湿地が続き、天候に恵まれれば水平線の向こうに利尻島と礼文島の姿が浮かぶ。内陸を国道40号線とJR宗谷本線が南北に貫き、その沿線に豊富の町がある。最北の街・稚内から少し南に下った場所だ。

この土地は、私にとって特別な場所と言える。生まれて初めての一人旅の目的地が、ここ豊富と稚内だったからだ。記録も記憶もかなり薄れてしまっているけれど。

夏休みのある日、フェリーで津軽海峡を渡り、函館、札幌、旭川を経由して宗谷本線に乗り込んだ。旭川から稚内行きの普通列車の四人用ボックスシートに座ると、すぐに大学生と思われる女性の三人組が残りの空席を埋めた。

彼女たちは気さくな笑顔で挨拶してきた。そして、「旅は道連れっていうしね」と言いながら、持参していたフルーツやスナックを分けてくれた。予期しない展開に内心では喜びながらも、初めての一人旅という緊張が解けない私は、言葉少なに年上の彼女たちの会話を聞いていた。三人は、「白樺は『しらかば」と読むのに、なぜ樺太は『カラフト』なのか?」などというようなことを話しながら、楽しそうに笑っていた。

「どこから来たの? それで、どこまで行くの?」

しばらくして、女性の一人が私に尋ねた。私は当時住んでいた北陸の都市名を答え、それから事前に立てた旅程を思い出しながら続けた。

「稚内の四つ手前、豊富駅まで行きます」

「豊富って、何があるんだろ?」と、別の一人が呟くように訊いた。

「温泉があるみたいです」

私の返答に彼女たちは「そうなんだ」と頷き、自分たちは稚内からそのまま宗谷岬まで行くのだと言った。私が「宗谷岬には、豊富の後に行きます」と話すと、一人が「じゃあ、また会うかもね」と笑いかけた。

列車が豊富駅に到着し、私が降車すると、三人組は車窓から手を振っていた。車両が稚内方面へ消えていくと、ホームには夏虫の鳴き声が圧倒的な音量で響いていた。

旅の記憶は、その他にはあまりない。温泉に入ったことも、宗谷岬まで足を延ばしたことも、朧げな輪郭だけだ。

そして去年、道北を巡る移動の途中に豊富を訪れた。駅も街も、数十年前から変わったのかどうかも判別できなかった。豊富温泉の日帰り温泉施設に行き、天然の油分を含んだ湯に身を沈めると、微かな石油の匂いがした。その香りが鼻腔をくすぐった時、別の記憶の断片が不意に蘇った。

あの時、列車の中で「どこまで行くの?」と尋ねた女性の言葉だった。彼女は、その後、こう続けていたのだ。

「あ、いきなりこんなこと聞いてごめんね。言いたくなかったら別にいいよ。でも、知らない人に『どこから来て、どこに行くのか』って聞くのは、旅する者同士にだけ許される質問なんだよねえ」

そうだった。私はこれまで、この言葉を自分が旅の中で見つけたのだと思い込んでいた。しかし、違った。それは、あの夏の一人旅で、見知らぬ女性が教えてくれたものだったのだ。それにしても、嗅覚と記憶の結びつきは不思議だ。

こうして、サロベツの豊富という土地は、旅をする者同士が伝えるそんな言葉とともに、私の長い旅の始まりの場所になっている。

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サンノゼの再会 旅先のサンノゼで乗り込んだタクシーの運転席には、アジア系の男性が座っていた。 ▸ 続きを読む

旅先のサンノゼで乗り込んだタクシーの運転席には、アジア系の男性が座っていた。四十前後だろうか。走り出してすぐ、携帯電話が鳴った。ハンズフリーで通話が始まる。最初は英語だったが、すぐに聞き慣れない言語に切り替わった。

通話が終わると、彼は振り返った。「外国語で騒がしくてすみません。同郷の仲間とこれからレストランを始めるもので、準備がいろいろあって」

「問題ないよ。ところで、今のはベトナムかカンボジアの言葉ですか」と、私。

彼は少し驚いた顔をして、それから嬉しそうに答えた。自分のルーツはベトナムで、話していたのはクメール語の一種だと。家族はカンボジア国境に近いメコンデルタに住んでいた少数民族だが、ベトナム戦争終結後はタイの難民キャンプで暮らし、自分が三歳だった1990年代初頭にアメリカにへ渡ってきたそうだ。

「日本人ですか」と彼が尋ねた。

そうだと答えると、彼は話し続けた。アメリカへの移住までのことは覚えていない。最も古い記憶は成田空港だという。

後に両親から聞いた話では、バンコクからは成田を経由するフライトでサンフランシスコへ向かった。成田には早朝に到着し、午後の乗り継ぎ便まで長い待ち時間があった。ターミナルで待つ間、昼食に「ベントー」が配られ、それは「カラアゲ」という日本式フライドチキンと白米のセットだった。幼い自分はその美味さに本当に驚いた。そして、その味覚と成田のターミナルの景色が人生最初の記憶になっているというのだ。

ハンドルを握る彼の横顔を見ながら、私は黙って考えていた。

1990年代前半、私は航空会社の成田空港のオフィスで働いていた。新人の業務の一つが、早朝にバンコクから到着する便のハンドリングだった。当時、国際移住機関がアレンジするインドシナ難民のアメリカ再定住プログラムがあり、毎便、アメリカに向かう数十人単位の難民家族のグループが搭乗していたのだ。

その頃の私はベトナム戦争や難民問題について、ほとんど何も知らなかった。航空会社にとっても、国際機関やアメリカ政府がどんな理由で運賃を負担していようと、乗客は乗客だった。上司から指示されていたのは、難民の乗客がトランジット中に行方不明にならないよう注意することだけだった。

とはいえ、彼ら・彼女らが空港ターミナルから脱出するのは容易ではないし、そもそもそうする理由もない。バンコク便が到着すると、英語を話すリーダー格の人物に「午後の出発までここで待機してください。飲料水とトイレはあちらです」とだけ伝え、あとは放置していた。全員が午後のアメリカ行き便に搭乗すれば、それで自分たちの仕事は終わりなのだ。

昼時になると、国際機関が費用負担する弁当が提供された。私は同僚と一緒に、「はい、唐揚げ弁当」と日本語で言いながら、配って回った。日本人にとってはごく普通の弁当だったが、事務的に手渡すと、ほとんどの人が無言で小さく微笑んだ。皆、箸を使いこなし、満面の笑みで完食した。

空になったトレイを回収しながら、私は彼ら、特に小さな子供たちのこれからを考えていた。アメリカでアメリカ人として成長する者も多いだろう。道を踏み外す者もいるかもしれない。成功して、いつかアメリカ市民としてベトナムを訪れる者もいるだろうか。難民になったのも、こうして移住するのも、自分で選んだ道ではない。すでに十分すぎる試練を経ている。この先の人生の幸福を願いながら、せめて成田空港で、短くとも穏やかな時間を過ごしてほしい。そう思っていた。

「どうかしました? 『ベントー』『カラアゲ』って、発音違ってます?」

ドライバーが笑って振り返った。

「ううん、完璧だよ」

私は窓の外に視線を移した。目の前にいるこの男性が、あの時の子供の一人だったかもしれない。だが、それを確かめる術はないし、必要もないのだろう。旅の途中で出会う人々は、時に不意に、私たちが忘れていた何かを思い出させてくれる。それだけで十分なのだ。

タクシーは目的地に到着した。料金を支払いながら、彼の新しい事業がうまくいくことを、ただ静かに願った。

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居心地の悪い図書館 私はときどき、大学の図書館に足を運ぶ。学生でも卒業生でも教職員でもなく、 ▸ 続きを読む

私はときどき、大学の図書館に足を運ぶ。学生でも卒業生でも教職員でもなく、近隣に住む市民として利用を許されている。広々とした空間は静寂に満ちていて、一時的に集中するには便利な場所だ。試験期間を除けば、自由に出入りできる。

閲覧フロアの大半は、キューブ状のブースで仕切られている。隣に誰かが座っても気づかないほど、プライバシーは守られる。多くの利用者が黙々と資料を読み込んだり、何かを書いたり、静かにキーボードを叩いている。

来訪者には、年配の市民も多い。偏見に満ちたプロファイリングをすれば、彼ら・彼女らは概ね痩せ型、眼鏡をかけ、少し気難しそうな顔をしている。髪はやや長めの、いわゆる古風な学者タイプだ。専門書を山のように持ち込んでいることが多い。後ろ姿だけでも、賢くて少し神経質そうな雰囲気が伝わってくる。

ある日、私はブースに入り、資料とともに調べものをしていた。二十ほどあるブースの三分の一が埋まっており、学者タイプの後ろ姿もちらほら見かけた。誰もが自分に向き合うように集中している。そんなとき、学生らしき利用者がもう一人、そっと入室し、私の後方左側のブースに座った。椅子を静かに動かす音がしたかと思うと、右斜め前のブースから大きな咳払いが聞こえた。そして今度は、「ガタン」という大きな音が響いた。後方左側の学生がバックパックをデスクに落としてしまったのかもしれない。

その直後、右斜め前から大きな声がした。年配の男性の話し方だった。先ほど咳払いをした人物だろうか。姿は見えない。

「今、入室した君。君は今、いったいどんな心境でいるのか。ここは神聖なる図書館の自習室だ。そのような無神経で配慮のない音を立てて、平然としているのは許されることではない」

怒りを抑制しているような声だった。先ほど入ってきた学生は、自分に向けて話されているのかわからず戸惑っているようだ。声の主の姿が見えないので、他の利用者も、ただ事態を見守っている。男性の声は続く。

「君は、何かを落とすかぶつけるかしてその音を立てた。大変迷惑で不快な行為だ。自分が図書館で大きな音を立てることなどないと思っていたのだろう。しかし、それは起きた。今後はそんな過ちを起こすのを、一千回、いや一万回に一度にまで減らす努力をしてほしい……」

後方左側から、「カバン置いただけじゃん」と小さな呟きが聞こえたが、男性の耳には届いていない。

「……なぜなら、ここは図書館という神聖な空間だからだ。ここを訪れている者は、全員、学問を志す者だ。同じ、研究の徒として、そのことを忘れないでもらいたい」

その朗々とした言葉が正しいのかどうか、私には判断できなかった。図書館では物音ひとつ立ててはいけないのか。もしそうなら、それを大声で注意することは矛盾ではないのか。姿を隠したまま一方的に語るその態度にも、違和感があった。わからないことだらけなのは、私が、男性の言うような「学問を志す者」でも「研究の徒」でもないからかもしれない。

振り返ると、学生はすでにヘッドホンをつけて勉強していた。フロアには、何事もなかったかのような空気が戻っている。私は資料に目を落としたが、なかなか集中できない。あれほどの「神聖さ」を図書館に求めている人間がいるという事実に動揺していたのだ。

あれ以来、その図書館には行っていない。また訪れる日が来るかどうかは、わからない。自分は、図書館の静寂が、必ずしも穏やかなものではないことを知ってしまった。

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蛋菜炒飯と酸辣湯 世界のどこにいても、中華料理に助けられてきた。 ▸ 続きを読む

世界のどこにいても、中華料理に助けられてきた。

和食は好きだが、国外で特段恋しくなることはあまりない。私が旅を始めた学生のころ、たとえ大都市でも日本食レストランは稀で、あったとしても高級店ばかりだった。コストを気にする若者には縁のない世界で、その感覚は今もあまり変わらない。近年は寿司もラーメンも世界中で手に入るが、よほどのことがない限り手を出さない。そもそも日本にいても、毎日食べているわけではないのだ。

それでも、バターやオリーブオイルの食文化圏を一週間も彷徨えば、身体がさっぱりしたものを求め始める。醤油の塩気、魚介の出汁、炊きたての米、味噌の発酵香など。懐石料理のような洗練ではなくて、もっと素朴な、いわゆる「アジア飯」の風味が恋しくなってくる。

そんな時はいつも、中華料理が最強の味方だ。

世界中で中華料理店は驚くほどあらゆる場所に存在している。高級店だけでなく、気軽に入れる店も多い。パリやニューヨークなどの大都市に中華街があるのはもちろん、思いもよらない国の街角にも必ずある。バルバドスのブリッジタウン、南アフリカのケープタウン、ノルウェーのトロムソ、ホンジュラスのテグシガルパ。例を挙げればキリがない。「次の角を曲がったら北京酒店があったりして」と冗談めかして言った瞬間、本当に「香港餐廳」という繁体字の看板が目に飛び込んできた。そんなことが何度もある。

これは数百年にわたる中華系の人々の移住の歴史が生んだものだろう。乾物や調味料の流通ネットワークが地球規模で構築され、現地の人々に受け入れられ、安定した需要が生まれ、店が根づいてきたのだ。

そうした店で私が必ず注文するのが、蛋菜炒飯(エッグアンドレタスチャーハン)と酸辣湯(サンラータン)だ。

蛋菜炒飯は卵とレタスだけのシンプルな炒飯で、中華の米料理の基本形のひとつ。酸辣湯は四川省発祥の、酢とラー油が効いた酸っぱ辛いスープ。英語で「ホットアンドサワースープ」である。どちらも定番中の定番なのは言うまでもない。

この組み合わせを選ぶようになったきっかけは、香港にゆかりのある旅のパートナーの一言だった。「豪華な料理は油が多い。基本的な料理なら外れがないし、素材の味がよくわかる」

たしかに、蛋菜炒飯はシンプルなだけに、米の質、油の香り、卵のコク、レタスの鮮度が直に伝わる。酸辣湯は、酸味と辛味のバランス、酢や香辛料の個性が明瞭に現れる。このふたつを食べれば、アジア飯の充足感を得ると同時に、地元の食材と料理人の腕を舌で確かめることができる。地域によって味わいが微妙に変わるのも面白い。同じメニューでありながら、それぞれの街にしかない表情を見せる。そうした違いが、土地の記憶と結びついていく。

旅人にとっての中華料理の強さは、どんな素材も取り込む包容力のある味わいもさることながら、「食べる人の胃袋を満たす」という明快な哲学だろうか。疲れた身体に懐かしい風味が染み渡るとき、ただほっとする。そしてそれが、旅を次のステップに進める力になるのだ。

日本の中華料理店でも、もしメニューにあれば、このふたつを頼んでしまう。店員が麻婆豆腐や餃子を勧めてくることもあるが、その二品がやはり定番だ。そしてこれからも、まだ見ぬ街角で、また新しい蛋菜炒飯と酸辣湯に出会い、助けられるのだと思う。旅というのは結局のところ、食でつながっているのかもしれない。

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旭川駅南口 JR旭川駅で乗り継ぎの待ち時間ができた。次の普通列車まで数時間ある。急ぐ旅ではない。 ▸ 続きを読む

JR旭川駅で乗り継ぎの待ち時間ができた。次の普通列車まで数時間ある。急ぐ旅ではない。乗車券は途中下車を許している。わずかな時間でも駅と街を歩けば、鉄道旅の楽しみは確実に増す。

駅ビルは国際空港のターミナルを思わせる。ガラスと天然木を多用した現代的なデザインで、その壮大さと機能美に驚く。北口から外へ出ると、道北の玄関口にふさわしい賑わいが市街中心部へと続いていた。

表通りと路地裏を歩く。旭川らしい店や風情も目に入るが、全国チェーンの店舗やブランドの看板が目立つ。人出もそちらに集まっている。今やJRのターミナル駅周辺は、全国どこへ行っても似たようなものだ。少し寂しい気もするが、社会情勢の変化やビジネスの経済効率を考えれば当然のことだろう。それによって住民の暮らしや旅行者の体験が豊かになるなら、一介の旅人が文句を言う筋合いはない。

駅ビルに戻り、構内の自由通路を抜けて南口から外へ出る。目の前に広がっていたのは、緑豊かな公園と澄んだ水をたたえる川、そして遠景に連なる大雪山系の山々だった。あさひかわ北彩都ガーデンと忠別川である。これほど自然と一体化した大都市の駅が、他にあるだろうか。まるで大自然の中に巨大な駅舎がそっと置かれているようで、北口の賑わいとのコントラストが際立つ。

そんなことを考えていると、南口の出入口近くに10代らしき男女が数人たむろしているのが目に入った。若者らしい髪型と服装で、スケートボードを手にしている。駅前のタイル張りのスペースで順番に滑走の練習をしており、ホイールがデッキを打つ音と歓声が響く。駅構内も公園も、スケートボードはもちろん自転車さえ禁止されている場所なのに。

順番待ちの者はタバコを吸っている。明らかに未成年で、ここは禁煙エリアだ。駅ビルから出てくる高齢者たちは、通行の邪魔になっている彼らを見て、厄介事を避けるように大回りで通り過ぎていく。

普段から若者の無茶をある程度は許容する姿勢でいるが、一般の駅利用者、特に高齢者に迷惑をかけるのはさすがに見過ごせない。注意しようかと思ったが、私はここでは旅人に過ぎない。この土地には独自の文化や許容のレベルがあるかもしれないし、何より若者たちが逆上して事態が悪化する可能性もある。

どうしたものかと迷っていると、公園の向こうから30歳ほどの男性が小さな子どもを抱いて歩いてきた。娘だろうか。男性の表情は硬く、大股で若者たちに近づいていく。よく通る声で言った。

「おい、お前ら。タバコ吸って補導されようが肺がんになろうが、それはお前たちの勝手だ。ただし灰と吸い殻は始末しろ。今すぐ片付けろ。それから、スケートボードな。フロアと建物を傷つけていないだろうな。それと通行人に迷惑かけてるのは許さんぞ。迷惑かどうかはお前らが決めるんじゃない。ここを通る人が決めるんだ。駅長に謝ってこい。今すぐだ」

若者たちがどう反応するか。固唾を呑んで見守った。すると意外なことに、少年少女たちは素直に「はい、すみません」と頭を下げ、吸い殻と灰を片付けて、建物の壁とフロアにダメージがないかを確かめた。そして「駅長室はどこですか」と近くの売店に尋ねに行った。男性は何事もなかったように、子どもを抱いたまま、その場を立ち去っていった。

ほっとしたと同時に、何かとてつもなく凄いシーンに遭遇した気がした。私は、こんな鉄道駅はなかなかないぞと呟き、旭川が少し好きになって、普通列車に乗るために改札口へ向かった。

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脱出 20世紀の終わりが見えてきた頃、私は都内のアパートから週に一度、 ▸ 続きを読む

20世紀の終わりが見えてきた頃、私は都内のアパートから週に一度、埼玉の浦和まで英会話講師のアルバイトに通っていた。派遣型のスクールに所属し、浦和駅からバスで30分ほどの住宅地にある集会所で、毎週10人ほどの小学生に英語を教えていた。片道1時間半の移動は決して楽ではなかったが、緑の多い郊外へ向かう道のりは、都心の喧騒から離れる小さな逃避でもあった。

梅雨入りしたある週、本部から連絡があった。次回のレッスンに、スコットというアメリカ人講師が同行するという。半年に一度、契約している外国人講師を各クラスに派遣し、子どもたちにネイティブの英語を体験させるのがスクールの方針だった。

当日は朝から激しい雨が降っていた。池袋駅の改札で、私は初対面のスコットを待った。スマートフォンもインターネットもない時代、ターミナル駅での待ち合わせは勘と直感が頼りだった。

約束の時刻を少し過ぎて、40歳前後の小柄な白人男性が現れた。安物のシャツは肩口まで濡れ、ズボンの裾から水が滴っていた。傘は持っていない。疲弊した表情、薄くなりかけた髪、投げやりな歩き方。彼からは、人生に疲れ果てた者特有の空気が漂っていた。

混雑する山手線と京浜東北線を乗り継いで浦和へ向かう間、車内は蒸し暑く、窓ガラスが曇っていた。簡単な挨拶を交わすと、スコットは不満を吐き出し始めた。

日本の梅雨がどれほど耐え難いか。自分は生まれてこのかた傘という原始的な道具を使ったことがないこと。公共交通に冷房がないのは非合理的だということ。東京という都市がいかに非効率で、アジア全体がどれほど後進的であるか。彼は英語で淀みなく語り続けた。

私は黙って聞いていた。東京や日本への評価そのものより、ネイティブが不平を述べる際の語彙と言い回しに興味があった。「なるほど、こういうアメリカ英語の表現を使えば皮肉が効果的に伝わるのか」と。

浦和駅前のバス停には長蛇の列ができていた。大雨でバスは遅れていたが、何とか開始時刻には間に合いそうだった。

ようやく到着したバスは超満員で、乗客のほとんどが濡れた傘やレインコートを抱えていた。密閉された車内に湿気が充満し、窓は完全に曇っていた。バスに乗り慣れた地元の人々でさえ顔をしかめている。それから30分は、誰にとっても試練だった。

隣のスコットは額に汗を浮かべ、目を血走らせていた。やがて彼の不快感は限界に達したようだった。彼は私の方に身を寄せ、耳元で囁くように言った。

「どんな手を使ってでもいい。チャンスを見つけて、一刻も早くこの国から逃げ出せ。世界にはもっとましな場所がいくらでもある。地獄だ。最悪だ。今すぐ脱出して、自分の人生を切り開くんだ……。俺もすぐにアメリカに向けて出国する」

真っ赤な顔で、彼は本気だった。

その瞬間、私は数週間前に見たハリウッド映画のシーンを思い出した。戦火の首都から、主人公が援軍のヘリコプターで命からがら脱出するシーンだ。「あなたにとって日本はそんなに酷いところなの?」 心の中でそう呟くと同時に、私は吹き出してしまった。スコットは怪訝そうな顔でこちらを見ていた。

あれから数十年が経った。私はその後、修学や仕事で世界各地を訪れた。パリの地下鉄で2時間立ち往生したこともあったし、バンコクのバスで冷房が壊れて気を失いかけたこともあった。ニューヨークの夏の地下鉄の悪臭も、ロンドンの冬の交通麻痺も経験した。浦和駅発のバスよりも過酷な移動手段は、今でも世界中に数えきれないほどある。

スコットは今、健在なら70歳に近いはずだ。その後の人生で、彼は傘を買っただろうか。もし彼が今日本を再訪したら、何に驚き、何に失望するだろうか。少なくとも鉄道やバスには冷房があるし、世界で最も正確な天気予報で雨雲の動きも把握できる。彼が必死に脱出しようとした国は、あの頃より少しは居心地の良い場所になっているはずなのだが。

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カヌー 初めてカヌーに乗ったのは、もう何年も前のことだ。 ▸ 続きを読む

初めてカヌーに乗ったのは、もう何年も前のことだ。道東の湿地をゆっくりと進むあの感覚が忘れられず、いつかまた北海道の川を下ってみたいと思っていた。

昨年の夏、北海道北部を旅する機会があり、道中、天塩川とその支流サロベツ川が、カヌーに適した穏やかな流れだと耳にした。さっそくサロベツ原野のビジターセンターで尋ねてみると、職員は首を横に振る。このあたりで旅行者向けのプログラムはやっていない。天塩川上流の中川町や美深町なら、ツアー会社があるかもしれないとのことだった。

陸路を天塩川に沿って南下して、中川町の宿に着いた。フロントで体験ツアーのことを聞くと、素っ気ない口調で観光協会を案内された。役場の中にあるという。

翌朝、役場へ向かう途中、宿に隣接するキャンプ場の脇を通った。天塩川に注ぐ小さな渓流があり、岸辺には数艇のカヌーが係留されている。スマホで調べると、ここは町のアウトドア拠点で、カヌー体験もできると書いてあった。

管理棟に入ると、スタッフが困った顔で説明してくれた。渓流を発着するプログラムは営業許可の申請中で、まだ利用できない。岸辺のカヌーも貸し出していないのだと。

結局、観光協会の窓口を訪ねた。対面での問い合わせは珍しいのか、担当者は少し戸惑っている様子だ。

「町内の天塩川で、カヌー体験はできますか」

「できないと思います」

「でも川岸にカヌーポートがあると聞きましたが」

「ありますが、プログラムやツアーはありません」

「では誰が使うんですか」

「カヌーで川下りをする方などが利用します」

会話はいまひとつ噛み合わなかったように思えたが、とにかくこの町では、旅行者が気軽に体験できる仕組みはないらしい。

次に向かった美深町でも、状況は変わらなかった。ガソリンスタンドでも道の駅でも、カヌーに詳しい人には出会えない。情報サイトに書かれている「カヌーの聖地」という言葉はなんなのか。

諦めかけて地図を眺めていると、この町にも、天塩川沿いに大きなカヌーポートがあることを思い出した。

さっそく向かってみると、川岸には立派な乗降場があり、毎年大規模なイベントが開催されているという案内板も立っている。やはりここは、カヌーが楽しまれている場所なのだ。

岸辺では三人の若者がくつろいでいた。地元の人たちで、二人がカヌーで川を下り、一人が車で次のポイントへ移動し、交代で漕ぎ出すのを繰り返しているのだと教えてくれた。私が質問すると、彼らは顔を見合わせた。

「天塩川には、一般向けのツアーみたいなのはないんじゃないかな」

「あるとしても、個人でプロのガイドを雇う形だと思う」

そして一人が笑顔で言った。

「自分のカヌーで下ればいいじゃないですか」

「え、個人で川下りするのに、免許とか許可とか必要ないんですか'

私が聞き聞き返すと、若者たちは目を丸くして、大きく笑った。

「いらないよ、川だよ。自己責任」

ハッとした。ここでは川は交通路なのだ。道路を自転車で走るのに免許がいらないのと同じことだ。

考えるまでもなく、北海道の開拓初期、そしてそれ以前のアイヌの時代、この地域では天塩川を小舟で行き来するのが最良で唯一の移動方法だったはずだ。私はカヌーを商業的なアウトドアスポーツとしてしか見ていなかった。しかしこの土地の人々にとって、それは大自然に身を置き、自然と交わって生きるための、重要な手段だったのだ。

自分の勘違いを恥じながら、私はますます川を下りたくなった。今、あの天塩川を漕ぐために、小さなカヌーを手に入れることを考えている。

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物理の先生 物理は最も苦手な科目だったが、あの先生のことだけは好きだった。 ▸ 続きを読む

物理は最も苦手な科目だったが、あの先生のことだけは好きだった。

期末試験で問題文の意味すら理解できず、私は解答欄に「電子が互いに反発するのは、子供が家を離れたり、恋人同士が別れたりするのと同じような力が働いているからではないか」と、無関係な駄文を綴った。答案が返却されると、余白に赤ペンでこう書かれていた。「概ね、合っています」。点数は20点だった。

その先生は生徒たちにあまり人気がなかった。物理オタクといった風貌で、授業での説明も抽象的で哲学的に傾きがちだったからだろう。今になって思えば、彼はおそらく理論物理学を専門にしていたのだと思う。

私は授業の内容にはついていけなかったが、彼の頭の中がどうなっているのか、日々何を考えて生きているのか、なぜあれほど独特の語彙を操るのか、そういったことに惹かれていた。授業そのものは、私にとってそれなりに楽しい時間だった。

ある日の授業でビッグバン理論が取り上げられた。宇宙は「空間そのものが高温・高密度の状態から一様に膨張し始めた現象」から始まったという、宇宙の起源を説明する理論だ。その日、先生の話しぶりはいつにも増して熱を帯びていた。

一般相対性理論、量子力学、理論物理学の意義。話は教科書の範囲を大きく逸脱し、大半の生徒は興味を失っていた。私はほぼ理解できなかったが、「観測的な証拠を説明し予測するための理論モデル」というものの存在を知り、頭のいい人間はこうやって世界を理詰めで解釈するのかと感心した。

そのとき、クラスの秀才グループの一人が手を挙げた。授業を教科書の内容に戻してくれという意思表示が込められた口調だった。

「この宇宙がビッグバンで誕生したのなら、ビッグバン以前には何があったんですか?」

先生はすっと顔を上げて、静かに答えた。

「『ビッグバン以前に何があったか』という問いは、我々の宇宙の枠組みである空間・時間・存在を超えていて、論理的に成立しません」

質問した生徒だけでなく、クラス全体が「わからない」という顔をした。

「つまり、何もなかったということですか?」

秀才君が食い下がると、先生は続けた。

「『ある』『ない』というのは、この宇宙における概念です。ビッグバン理論によれば、空間と時間そのものがビッグバンとともに始まったとされます。『存在する』『存在しない』という概念も、空間や時間があって初めて意味を持ちます。空間がなければ『どこにある』も成立しないし、時間がなければ『いつある』も成立しません。したがって、『存在』や『無』という概念自体が、ビッグバン以降の宇宙の枠組みの中で初めて意味を持つのです。『ビッグバン以前』は、ビッグバン以降の宇宙で生まれた我々の言語や論理では表現できません。つまり、『何もなかった』のではなく、『何かあったか、なかったか』という問い自体が意味を持たない――問いの枠組みが成立しない状態であると理解すべきです」

教室は静まり返った。誰も反論しなかったし、誰も理解した様子もなかった。

数十年が過ぎた今も、あの日の教室で聞いた「問いの枠組みが成立しない」という言葉は、私の中で静かに響き続けている。物理の知識はほとんど残らなかったが、「世界をどう捉えるか」という視点だけは、確かにあの先生から受け取ったのだと思う。

近年、インフレーション理論やループ量子重力理論といった、ビッグバン以前を探る新しい仮説が現れている。もし今、あの先生がそれらについて語るとしたら、どんな言葉を選ぶのだろうか。彼はきっと、また私たちの理解を超えた何かを、淡々と語るに違いない。

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三度目の冬 十月に入って、明け方の気温が一桁台になった。 ▸ 続きを読む

十月に入って、明け方の気温が一桁台になった。この北の街に移り住んでから、まもなく三度目の冬を迎える。

これから日中も気温が零度を超えない日が続いても、驚くことはないだろう。絶え間なく降り続く雪に閉ざされても、慌てることはなさそうだ。ここでは昔からそうだった。自然に逆らうことはできないし、移り住んできたのは自分の方だと、いつの間にかそう考えるようになっている。どこに住もうと、環境を受け入れて適応すれば、住み心地が悪くなることはない。

一昨年、この街に住むことを決めたきっかけは、ある日ふと気づいたことだった。ここには、それまで旅先に漠然と求めていたものが、ほぼすべて揃っている。自然と空間、一定規模の都市機能、治安の良さ、澄んだ空気、安全な水道水、豊かな食材と料理、そして寛容な人々。言葉にすれば当たり前のことばかりだが、これらが同時に満たされる場所は意外に少ない。

住み始めた当初は、かなり好意的なバイアスがかかっていたに違いない。毎日の生活で出会うものすべてが、理想的な場所のように映った。

幅広でまっすぐに延びる道路を歩くと、視界が遠くまで開け、心身が解放される感覚がある。日本海型気候は山の天気のように移ろいやすく、一日のうちに何度も表情を変えるが、ひとたび晴れれば、高緯度特有の高く青い空が広がる。スーパーマーケットの棚に並ぶ野菜の産地の多くは地元だ。鮮魚売り場では、朝に水揚げされた魚介が氷の上に並んでいる。街を一歩出れば森があり、車で一時間も走れば、人の気配がほとんどない原生林や湿原に立つことができる。都市と自然の距離が、とても近い。

しばらくして現実をより冷静に見られるようになったが、それでも長年旅に求めていたものが常に手の届くところにあるという実感は変わらない。それらはそのまま、日々の幸福感につながっている。

人々の寛容さについては、地元の知り合いや友人がほとんどいないため、断言はできない。それでも住人たちは、自分が「旅人として住むこと」を許してくれていると感じる。多くの人が、定住者にも短期滞在者にも通過者にも、大差なく接している印象がある。この地に住むほぼすべての人が、数世代前にはここにいなかった。先住の民族の人たちもまた、移動の多い生活様式を持っていたとされる。誰もが移動者、あるいは旅人の系譜を引いているからかもしれない——とはいえ、これもまた理想化された見方かもしれない。

そして、冬を中心に一年を捉えている人が多いことにも気づいた。雪が降る長い厳冬がいわば標準で、暖かな春や美しい夏、透き通るような秋は、その基準から見れば例外的な季節なのだ。以前、地元のラジオパーソナリティが冬の到来を「帰ってきた季節」と呼んでいた。その言葉を聞いたとき、この街の時間感覚の輪郭が見えた気がした。

三度目の冬を目前にして、自分もようやくその感覚を少し理解できるようになったかもしれない。それが嬉しい。

初雪は例年、十月下旬だという。街はすでに冬支度を終えている。冬タイヤへの交換の予約を済ませた車が増え、ホームセンターでは除雪関連の資材が売られている。ベランダの植物を室内に取り込む人もいる。街全体が、静かに季節の帰還を待っている。自分もようやく、この街の一部になりつつある。

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うき草 世間一般では、人生で引越しを経験する回数というのは、意外と多くないらしい。 ▸ 続きを読む

世間一般では、人生で引越しを経験する回数というのは、意外と多くないらしい。先日、同年代の知人たちと「引越し」の話題になったとき、そのことを改めて実感した。

彼らの大半は、半世紀以上の人生で数回しか住まいを移していなかった。最も多い人でも、親が家を建てたとき、進学、卒業、結婚、子供の成長に合わせた住み替えで五回ほど。生まれた家から一度も引っ越ししたことがない人もいた。

それに比べて、私はこれまでに25回以上、引越しを経験している。単純計算で、おおよそ2年に一度は新しい場所に移り住んできたことになる。

最初の引っ越しは、親の事業の倒産による夜逃げだった。その後、親に「もう帰ってこなくていい」と言われ、友人の家に長く居候したこともある。東京とアメリカの田舎町での修学、ニューヨークのど真ん中での間借り生活。日本に戻ってからは、職場に近い賃貸アパートを何軒も渡り歩いた。結婚、そして離婚の際も、住まいを変えた。東南アジアで仕事を見つけて数年間暮らしたこともある。マンションを買ったり売ったりしたときも、当然引っ越ししている。最近では、どうしても日本の地方都市に住みたくなり、地縁どころか知人も一人もいないのに住み始めた。

正確な回数はもう覚えていない。少なくとも25回、ということにしておこう。

定住できない性格なのか、こらえ性がないのか。自分でもよくわからないが、このフットワークの軽さは自分の持ち味だと思っているし、嫌いだと思ったことはない。

知人たちは呆れたように「そんなに何度も引っ越ししていて、何かいいことはあるのか?」と聞いてきた。私は「モノに執着しなくなるから身軽になれるし、どんな街でも旅先のように暮らせる」と答える。皆、少し首をかしげながら笑っていたが、一人が「うき草みたいだね」と言った。

うき草。根が地中に下りていない草。なかなかいい喩えだと思った。地面に根を張らなくても、風に吹き飛ばされても、見知らぬ土地で水を吸い、葉を広げ、光合成をして、とりあえずそこで生きていく。うまくいけば、そこで新しい芽を出すこともある。それは、まさに自分の生き方そのものだ。

今の街に住んで、もうすぐ二年半が経つ。次はどんな理由で、どこへ移り住むのだろうか。それは自分にもわからない。うき草だって、きっと、明日のことはわからない。

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