ストックホルムと北極圏アビスコへ
夏の初めにスウェーデンにしばらく滞在した。酷暑の日本を急遽抜け出す避暑の旅、ではなく、昨冬からぼんやりと計画していた長旅である。ひねくれた旅人の私は、これまで厳冬にしか北欧を訪れたことがなく、改めて短く美しいというスウェーデンの夏を体験しようと思ったのだ。今回はそんな首都ストックホルムと北極圏アビスコ国立公園への旅の記録である。
アーランダ国際空港
搭乗機はボスニア湾上空を横断したのだろう。機窓から森林と湖が複雑に重なり合うスウェーデン南部が見え始めた。目的地のストックホルム、アーランダ国際空港にはかつて、何度か降り立ったことがある。1990年代まで、日本から西欧都市への直行便が、天候や機体重量などの条件から目的地まで航続距離を伸ばせず、急遽燃料補給にこの空港に立ち寄ることがあった。私はそんなイレギュラーによく遭遇していたのだ。時期は概ね冬で、エプロンに駐機して給油する間、目的地への到着遅れに気を揉む一方で、窓から望む空港ターミナルや周辺の森が雪で白く輝く光景の美しさに目を奪われ、そこに旅の幸福を感じていた。そんなストックホルムに、夏に戻ってきた。
機体はアーランダ空港に着陸。機窓からはターミナル前に整然と駐機するSASやノルウェージャン(エアシャトル)などの機体と、周囲に緑が鮮やかな森が広がっているのが見えた。かつての冬景色とは異なる、とても穏やかで色鮮やかな光景だ。ターミナルに進むと、建物の規模や新しさはさほど特徴的ではないが、インテリアや案内表示などの色合いやディテールに統一感があり、全体的に洗練されている。シンプルながら印象的かつ機能的とされる北欧デザインである。
イミグレーションにはローカルと思われる北欧系のヨーロッパ人や中東系の特徴を持つ人たちに加え、東アジア人の風貌をした旅行者がいる。実に多様だ。緊張感はあまりなく、安堵や開放感に満ちている。
到着ロビーでスウェーデン・クローナの現金を確保しようとするが、クレジットカードのキャッシング用ATMも外貨両替デスクも見当たらない。案内カウンターで尋ねると、女性スタッフが「クレカがあるならキャッシュは要らないわよ」と笑顔で答えた。いやいや、いくらクレジットカードが普及していると言っても、最低限の現金を持つのは旅の基本だし、緊急時のマストアイテムでもある……、とスタッフの助言を振り切って1万円札を両替した。780クローナが手元に戻る。
ストックホルム中心部までは高速鉄道「アーランダ・エクスプレス」に乗車。高速バスやローカル列車に比べて値段は高いが、快適で高速にストックホルム中央駅に到着した。駅前に出ると肌で感じる季節感は初夏だが、見上げる空の日差しは柔らかで、秋の午後のようだ。ここが北緯59度の高緯度に位置するためだろう。
ホテルのレセプションでスタッフに「ヘイ、ヘイ!」と声をかけると、笑顔で「ヘイ、ヘイ!」と返される。「ヘイ」はスウェーデン語で「Hej」と書き、発音は英語の「Hello」のくだけた言い回しの「Hey」と同じ。初対面でもいきなりフレンドリーさが増すようでとても良い。スウェーデンでは日常生活のほぼいつでも使う一般的な挨拶だ。
部屋はシンプルかつ機能的なデザインでまとめられている。無駄がなく、色合いが穏やかで清潔感が溢れ、過度に華美な演出や装飾がないのが快適だ。旅人にとって極めて心地良い環境である。
窓から街を見渡すと、時刻は夜9時を過ぎているのに空は明るく、ちょうど夕刻が始まる頃のようだ。到着日ということもあり早めに就寝したいが、日没が23時近くだと知って「白夜」という言葉が脳裏をよぎり、目が冴えてしまった。この国の人たちは睡眠不足にならないのだろうか。窓にかかる厚手の素材のカーテンを閉め直し、ベッドの中で目を閉じた。
ストックホルムを歩く
翌日からは数日間をかけてストックホルム市内を歩き回った。旧市街と王宮などがあるガムラスタンを中心にした市内の観光スポットは、メトロとバスと船で十分に回れる。SLカードと呼ばれる(JR東日本の)Suicaスタイルの乗り放題パスを買うのがオススメだ。72時間有効のトラベルカードで約3500円だが、その利便性は高い。
ストックホルムの街はとにかくフォトジェニックである。木々の緑あふれる通りには風格のある建物が整然と並び、公園や公共スペースも多い。道路は不規則に入り組んでいるが、道路の広さや建物の設計からだろう、雑然とした印象はない。路上は概ね清潔だ。
なにより、街全体が14以上の島で成り立っているため、川や水路や湖(あるいは海)が至る所にある。通りを曲がると、目の前の石畳の坂道の先が水面で、対岸にまるで水に浮かぶように建つ宮殿のような建物がある。それに目を奪われていると、目前をゆっくりとカモメが低空飛行していく、などという光景に頻繁に出くわす。ここは内陸のようで、海辺のようで、爽やかな高原のようでもある不思議な街である。
ここに住む多様な人たちの、穏やかでどこか余裕のある表情も印象的だ。街のパーツのヴィジュアルだけでなく、都市空間全体の連続性や空気感がどこまでも美しく、まるで演出家の手にかかって「ストックホルム」という環境作品が作り上げられているかのようである。
ガムラスタンで王宮などを巡り、続いてヴァーサ博物館、SoFoエリア、そして写真博物館(Fotografiska)などをゆっくりと歩いた。いずれも歴史遺産や文化・芸術を保存し紹介しているのだが、同時にどこでも現代と未来に向けたエネルギーのようなものが感じられるのが心地良い。ストックホルムは古いモノ・コトだけの街ではなく、現在と未来にも連続する生きた都市空間、そんな印象だ。
街歩きに疲れたら、躊躇せずに休憩しよう。スウェーデンには「Fika(フィーカ)」の習慣があるではないか。1日に数度、コーヒーとスイーツなどで休憩を取ることが、広く生活文化として実践されているもので、オフィスであろうと学校であろうと、それぞれの立場を超えてさまざまな人々が交流しコミュニケーションを取る機会になるという。フィーカに相応しいカフェや公園などは、街中至る所にある。
ちなみに、ストックホルムでは水道水を安心して飲める。大都市では珍しく、旅人にとってはありがたいことだ。ミネラルウォーターを買う必要がないだけでなく、最低限必要なものの一つがいつでも手に入るという安心感は大きい。水道水は日常の飲用に耐えられる無味無臭である。さらにWi-Fiの高速インターネット通信がさまざまな場所で無料で使えることにも感激。ほとんどが登録なしでアクセスでき、海外ルーターや現地SIMカードの手配が要らないレベルだ。旅行者にとってのインフラがこれだけ整っている街があったのか—。
旅先としてのストックホルムが世界でもっとも快適な首都の一つであることに異論を唱える人は少ないだろう。数日過ごす間も、食事は華美過ぎず量も多過ぎず概ねヘルシーで、特に素材の味を生かしたノルディック料理が魅力的だ。高いとされる物価も、欧米の大都会のそれに比べても総額では驚くほどではない。むしろレストランなどのチップの目安が10%というのは他の都市に比べると低い方だろう。
市内にはプレスビロン(Pressbyran)、セブンイレブンなどのコンビニエンスストアが各所にある。日本とほぼ同じ感覚であらゆなものやサービスが揃っているのも便利だ(前述のSLカードや旅行者用のSIMカードも簡単に買える)。ふと、到着時に確保した780スウェーデン・クローナの現金が全額残っていることに気づいた。ここまで、ショッピングモールの有料トイレ(10クローナ)を含む市中でかかったすべてのコストの支払いにクレジットカードが使えたのだ。ショップやレストランやバーの中には「CASH FREE」(現金使えません)とサインをしているところもあった。空港の案内カウンターのスタッフは正しかったのである。
到着から数日が過ぎ、街歩きにも飽きて、公園やカフェでぼんやり過ごす時間が増えてきた。しかし、その時間がなんとも心地良い。経験から、何もしなくてもただそこにいるだけで快適に過ごせる街が良い街だと思っている。初夏のストックホルムがまさにその極みである。穏やかな気候、忙し過ぎない通り、多様で寡黙な人々。ヴィジュアル的にほぼ完璧な空間。そして美味いコーヒーと食事。これ以上、旅に何を求めるというのか。
北極圏鉄道でアビスコへ
日が変わり、ストックホルム中央駅からスウェーデン国鉄(SJ)で、北極圏の街、アビスコに向かう。夕刻18時にストックホルム中央駅を出発する夜行寝台列車は「北極圏鉄道」(ARCTIC TRAIN)と名付けられていた。
行き先はノルウェーのナルヴィク。ルートはストックホルムからボスニア湾西岸を北上し、湾の突き当たり少し手前で進路を北西の内陸側に向ける。その先はスウェーデン北部の北極圏、ラップランドである。ノルウェー国境の手前のアビスコまでの約1300㎞を、約18時間かけて進む。
6人用のベッドを備えたコンパートメントを、デンマークから来たという若いカップルとシェアする。過度にコミュニケーションを取る必要がなく、それでも互いに敵対心がないことをそれとなく示し合う雰囲気が実に楽だ。ここでは誰もが、旅の上級者のようである。
列車は古都ウプサラを過ぎ北上を続けるが、いつまでたっても夜にならない。それでも午後9時ごろには自然とシートをベッドに転換し、厚手の生地のカーテンをしっかりと閉め、眠りにつく。鉄路から伝わる振動と列車の揺れが心地良い。
目を覚ますと翌朝の午前5時前だった。列車は森林地帯を走っている。日の出は午前2時ごろで、周囲はすでに午前の光で満ちている。果てしなく続く樹木のグリーンと、空のブルー、そしてときおり姿を表す湖の輝きが美しい。周囲の森は豊かだが、枝ぶりは心なしか細い。極北の植生の特徴だろう。独特の大自然に抱かれ、遠くにやって来たという旅心がこみ上げる。
国立公園内の「王様の散歩道」を歩く
正午前にアビスコ・ツーリストステーションに到着。多くの乗客がここで降車するが、私を含め多くはトレッキングの装備を持った旅行者である。
ここはアビスコ国立公園の中にある駅で、公園内の「王様の散歩道(King's Trail)」と呼ばれる数百㎞のトレイルの起点なのだ。公園内の宿泊施設で荷をほどき、さっそく軽装でトレッキングに出かける。トレイルはアップダウンはあるものの、険しい登山はなく、北極圏の川沿いの手付かずの原野と森の中を歩く、そんな趣だ。ここは北緯68度。北緯66度3分以北の北極圏、白夜のエリアである。ちなみにこの日の日没は午前0時15分、日の出は午前1時09分。わずか54分間の「夜」も空は暗くなることはない。
この白夜の時間帯に、ナイトトレッキングを楽しむ人たちも多い。数日間にかけて国立公園内を歩いた。広大な地域全体でラップランドの太古から変わらない大自然の力を全身でじわじわと感じることができる。
川の流れも時には急峻、ときに穏やかで、自然が生み出した姿のままだ。途中の川辺の岩の隙間の窪みで、直径50㎝くらいの石が渦を巻く川の水に洗われるように同じところをぐるぐると回っていた。天文学的な回数の摩擦によって窪みの内側も石の表面も金属のようにツルツルになっている。通りかかったトレッカーが「これは、数百年前からここでこうやって、誰の手にも触れられず回っているのかも……」と呟いた。真偽は不明だが、自然の力と悠久の時間の流れに圧倒される。
アビスコではさまざまな人たちが夏の北極圏の自然を楽しんでいる。ヨーロッパ各地から訪れている人を見受けるが、やはりスウェーデン人が多いようだ。スウェーデンには「自然享受権」があり、すべての人が自然の中を自由に立ち入れることを保証されているという。森と湖に囲まれた自然の中でトレッキングやキノコ狩り、ベリー摘みをするのが、国民の権利なのだ。アビスコの自然の豊かさを見ていると、スウェーデン人がこの土地を特別な場所としてとても大切にしていることが理解できる。
原初の環境の中で地球のデカさや悠久の時の流れを感じる一方で、ふと、世界の巨大ネット企業のサーバーの多くがスウェーデン北部に設置されているというニュースを思い出した。国としてのIT基盤と情報セキュリティの高さ、そして平均気温の低さが、膨大なデータ収容に最適なのだそうだ。そういえば公衆無料Wi-Fiも当然のように恐ろしく速い。大自然とITの先進性という、現代スウェーデンの特徴とパワーを垣間見るような話だ。
そもそも「避暑」を目指した旅ではなかったが、そんなことさえも忘れさせてくれるほど、連日暑い。日中は30度近くまで気温が上がることもあり、時折の雨には蒸し暑ささえ感じる。トレッキングでは汗が吹き出て、強い日差しは肌を刺すようだ。北極圏ではなく温帯の天候に近いようにも思う。そういえば宿の近くのミュージアムには、この地域の山にある氷河が完全に消失した写真が展示されていた。気候変動の影響はここでも顕著なようだ。
それでもアビスコの森林地帯を歩き回り、圧倒的な自然の偉大さと美しさを存分に楽しんだ。宿をチェックアウトする時、寡黙なスタッフが私の目を見て「ここは冬が、とても良いよ。また来て」とポツリと言う。そんなこと言われたら、また本当に来てしまうじゃないか—。
ルーレア、そして空路ストックホルムへ
この先はボスニア湾北部のルーレアの街に滞在して、国内線フライトでストックホルムまで飛ぶつもりだ。ルーレアまではSJ(国鉄)とバスで向かう。道中はひたすら森の中を進むが、どこに行っても幅広の道路がきっちりと整備されているのはさすがだ。
北極圏の境界のモニュメントを通りすぎ、ルーレアに到着。人口5万人弱のこぢんまりとした美しい街である。歴史的に交通の要所でもある。
ホテルで新聞を読むと、スウェーデン北部で大規模な山火事が頻発し、深刻な状態だ。原因の一つは「この250年で最悪」とされる今年の猛暑とのこと。生態系への影響も測りしれないとある。IT企業のサーバー群は大丈夫だろうか……。250年前の温度計(とされるもの)の精度は見当がつかないが、歴史的な暑さに遭遇したのは間違いないようだ。アビスコのあの暑さは、やはり異常気象だったのである。
古都のようなルーレアでは、伝統的なスウェーデンのチャーチビレッジがそのまま残る「ガンメルスタードの教会街」などを巡る。ここでも街を囲むように海や川が周囲にあり、人々の生活は水辺にあった。広大なボスニア湾に続く港から望む早朝の水辺が、波一つ無い鏡のような水面であったことが強烈に記憶に残る。
森の中で100%グリーンエネルギーにより運用されるルーレア空港から、ノルウェージャン(エアシャトル)に搭乗する。北欧が誇る新進のLCCだが、サービスレベルや雇用体制などで賛否を呼ぶ会社でもある。搭乗便はオンタイムで出発し、可もなく不可もなく(無料Wi-Fi以外の機内サービスもほぼなく)、スウェーデンを静かに南下した。あまりの簡素さに、北欧の国内線は厳冬期のライフラインであることが前提で、気候の良い夏は手を抜いているんじゃないか、と斜に構えてみる。が、数年前の真冬、スカンジナビア半島最北端の空港でヴィデロー航空の機長が「北極圏の航空サービスは冬に本領を発揮する」と言ったことを思い出し、自分の妄想もあながち間違いではないかも、とも思ったりしていると、機体はアーランダ空港の滑走路に着陸した。
さて、これから帰国までの1週間余り、何をして過ごそう。今年のこの気候ではあまり「避暑」にはならなさそうだが、この旅では時間がたてばたつほどに北欧とスウェーデンの独特のエッセンスが心と体に染みてきて、なんとも心地が良い。「自分はこの土地に呼ばれている」と思い込んでしまいそうなこの旅を、なんとか終わらせない方法はないものか—、そんな実現しないことを夢想するのも旅の幸せの一つである。