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ナホトカと舞鶴 – Nakhodka, Russia & Maizuru, Japan

By kkyam + riito_s 2020 約7,000字 読了目安 約20分

新型コロナウイルス禍による移動制限で旅立つことができない日々が続いても、多くの時間は旅について思いを巡らせている。これまでの旅、これからの旅。それらのつながり。過去の旅も、それを終えてから時間が経っているからこそ、ふとした光景が蘇ったり、その意味に気づいたりもする。旅にはやはり、実際の移動距離だけでなく、時間や情報などさまざまな「軸」があるのだろう。そんなことを考えながら、今回は、2020年1月に訪れた極東ロシア・ナホトカと、その街と日本との深いつながりを知ることになった旅の記録をお届けする。


元旦に成田空港からS7航空でウラジオストクに向かった。新年早々にこのフライトに搭乗するのは、2019年に続いて2度目である。

昨年、極東ロシアに向かったのは、元旦出発の航空運賃が拍子抜けするほど安かったからだったのだが、その旅での厳冬のウラジオストクやハバロフスクの美しい光景や温かな人々の暮らしぶりが忘れられず、今年も再訪することにした。彼の地に引き寄せられたと、いっても過言ではないだろう。成田を定刻に出発した機内では、特に新年の挨拶といったアナウンスもなく、S7航空らしい極めてシンプルな機内サービスを享受しつつ時間をつぶす。

日本海を縦断し、ロシア沿海地方の荒涼とした海岸と白い大地が見え始めると、機体は降下を開始した。そしてすぐにウラジオストク国際空港へ到着。あっという間の空の移動ではあったが、その勝手知ったる土地勘とわずか2時間半というフライトタイムには、日本の国内線の利用に近い身近さがある。期待感を上回るシンプルな安定感のある国際線フライトというのも、なかなか良いものだ。

ターミナルの外に出ると、気温はマイナス一桁台だった。快晴で積雪も少ない。時間帯によっては体感温度がマイナス30度近くまで下がった極寒の昨年に比べると、まるで「陽気」のようにすら感じられる快適な気候である。確かに周囲の人々の防寒の装いも、わずかに軽快であるように思える。それに安堵するやら、少し物足りなさを感じるやら。我ながら旅人というのは勝手なものである。

タクシーで、完全には凍結していない高速道路を進み、ウラジオストク中心部のホテルに到着した。荷を解き、食事をしようとすぐにホテル周辺を歩き始めるが、大通り・裏通り、繁華街、レストランの場所など、自分が市内の大まかな地理と各所の位置関係をなんとなく把握していることが嬉しい。

苦しさや痛みを感じるほどではない寒気(といっても氷点下10度くらいの寒さではある)の中、馴染みの店に向かい軽く食事をし、帰路にウラジオストク鉄道駅に立ち寄った。今回の極東ロシア旅の目的地の一つであるナホトカまでの列車のスケジュールを確認し、可能であれば明日出発の乗車券を事前に購入しようと思ったのだ。駅舎の奥にある案内窓口の中に座る、いかにも長年鉄道会社で働っているという風貌の中年女性は、顔見知りの友人だろうか、窓口の外に立つ別の女性と早口で談笑している。速射砲のようなロシア語の会話の中身は理解できないが、とても楽しそうだ。こちらは特に急ぐ理由はないので近くで佇んでいると、「質問があるなら大声で尋ねてね!」という感じで窓口に手招きされた。明日の午後のナホトカ行き列車は14時出発であること、乗車券は明日ここで買えることを丁寧に告げられた。


鉄路、ナホトカへ


翌朝、空は抜けるような冬の青空だ。ウラジオストク市内中心部の定番の観光スポットをぶらぶらと歩くが、日付は1月2日。日本のような正月休暇はないとはいえ、街はどことなく閑散としている。正午を過ぎ、のんびりとウラジオストク鉄道駅に向かう。ナホトカ行きの列車の出発までまだ少し時間があるが、慌ててやりたいことが他にあるわけでもない。

乗車する14時出発の列車は、近郊の街を結ぶローカル電車「エレクトリーチカ」である。ナホトカのチハオケンスカヤ駅着が19時14分の予定なので、約200キロメートル余りの距離を5時間ちょっとかけて走ることになる。疾走感は少なそうだが、のんびりと車窓から景色を楽しめるだろう。

ウラジオストクと近郊の港町ナホトカの間には、このエレクトリーチカが一日数便、往復している。直通のルート以外にも、ウラジオストクのはるか北にあるウスリースクなどを経由する便、そこで列車を乗り換える便などもあるので、利用する際には注意が必要だ。所要時間が16時間などとなっているものが、そのような直通でないルートの可能性が高い。ちなみにエレクトリーチカは、はるかモスクワなどへと続くシベリア鉄道と同じ線路を走る。

ウラジオストク駅では、エレクトリーチカは駅舎や改札などがない屋外の独立したプラットホームから出発する。近郊からの通勤者や市内中心部での買い物客の利用がメインで、利便性を優先しているのだろう。ただ、体感マイナス30度近くの気候では、乗車するまでに凍りつきそうだ。

定刻に、広軌の長大な車両がプラットホームに入ってきた。1月2日の午後であるにもかかわらず、かなりの人が下車し、また乗車する。車内には通路を挟んで、3席がけのシートが対面になっている簡易的なボックス席が並んでいる。窓際の席につくと、隣には屈強な体格の父親と5歳くらいの小さな娘、正面には買い物帰りと思われる女性が続いて座った。車両全体ではおよそ9割の座席が埋まっている。

エレクトリーチカは静かに、そして定刻にウラジオストク駅を出発した。近郊電車だからだろうか、コートやジャケットを脱がずにそのままでいる人がほとんどで、話している人はあまりいない。列車の進む音、線路の軋む音などだけが響く。しばらくすると、進行方向左手の窓から純白の雪と氷に覆われた広大な海が見え始めた。アムール湾である。沖合の氷上には、まるで南極のペンギンのように、氷上釣りを楽しむ地元の人々の姿が見える。極東ロシアならではの冬の絶景だ。

線路は間もなく海岸線を離れ、東の内陸へ向かい、列車は山間部を縫うように進む。周囲には針葉樹が連なる山々以外はほぼ何もない。時折、小さな集落が見えてきて、質素な駅に列車が停まる。停車するごとに徐々に乗客が降りていくが、乗車してくる人は少ない。途中、スキーを担いだ家族連れなども降車する。スキーリゾートなどが近くにあるのだろうか。電車の窓から、弱々しい冬の午後の光の中にゆっくりと流れる針葉樹の森をしばらく眺めていた。


2019年の舞鶴


ナホトカに行こうと思ったのは、昨年、ふとしたきっかけで京都府の日本海に面した舞鶴市を訪れ、そこで「舞鶴引揚記念館」を見学したからだった。

「引揚」とは、第二次世界大戦後、一般の日本人が大陸や南洋から日本本土への帰還を意味する。今からおよそ75年前、第二次世界大戦末期には約300万人の民間人が海外に住んでおり、その多くは終戦と共に「引揚者」として日本に帰国しなければならなかった。移動はほぼすべて海路によるもので、アジアと太平洋の各地の港から日本各地の港へ不定期で運航されたのが「引揚船」である。その大多数は終戦から数年内に運航されたが、最後の引揚船が日本に到着したのは13年後の1958(昭和33)年というから、戦争と引揚の背景の複雑さと混乱、そして人々の移動の規模が想像できるだろう。

そして、シベリア抑留からの解放者を含む当時のソ連からの引揚者は、シベリアのナホトカの港から引揚船に乗った。その船が到着したのが、京都の日本海側にある舞鶴港だったのである。舞鶴に到着した引揚者の数はのべ66万人以上にのぼるという。

記念館では膨大な資料と共に、引揚の事実と当時の苦難が詳細に説明されていた。そして近くには、引揚船が到着した当時の姿を復元した平(たいら)引揚桟橋があった。その桟橋をじっと見ていると、記念館の中にあった当時の写真や、精巧に作られた当時の様子のジオラマが、リアルな光景として脳内でシンクロした。

旅には巡礼、放浪、探検、征服、伝道、調査、漂流など、さまざまなスタイルと目的があるが、いわゆる現代のレジャー・観光目的の旅というのは、その歴史がせいぜい数百年しかない。それ以前は、旅は概ね困難や挑戦と同義語であった。しかし第二次世界大戦後の日本人の引揚は、これらのどれにも当てはまらない特殊で大規模な人の移動・旅だったと言われている。引揚者はどんな思いで舞鶴の港に降り立ったのか。その目的は帰郷ではあるが、その背景と環境は、絶望に近いものだったであろう。近代史には詳しくないが、旅人・移動者の一人として、その苦難の経験と過酷な状況に、自分なりに思いを寄せることはできる。

引揚記念館の近くの、港を見下ろす展望台には方位盤が設置され、はるか846.2キロメートル先のナホトカの方角に向けて矢印が刻まれていた。ここに到達した人たちの旅と移動を、後世の記憶に留めるためのモニュメントである。

それ以来、ナホトカには行きたいと思っていた。現代の旅人として、日本海を縦断した先人たちの旅路の一端を少しでも辿ることは意味があるのではないか、と感じたのだ。さまざまな旅と旅は、どこかでつながっている。


夕闇のナホトカ到着


ナホトカに向かうエレクトリーチカに話を戻そう。周囲に夕闇が迫り、列車が時々停車する駅は、山間の小さな村のような場所ばかりになってきた。駅周辺でも電灯の明かりは少なく、乗降客もごくわずかである。しかし18時を回り、降車駅であるナホトカのチハオケンスカヤ駅が近づいてくると、今度は乗車してくる人が少し増えてくる。ナホトカ郊外から中心部へ帰宅する人々だろうか。

チハオケンスカヤ駅には定刻に到着した。駅周辺はすでに薄暗く、降車した数十人は三々五々、駅前に停めてあった自家用車や出迎えの車に拾われていく。私はグーグルマップを頼りに、徒歩で近くの宿泊先に向かう。周囲がほぼ真っ暗になったころ、ようやく丘の上にある小さなホテルにチェックインできた。

夕食をまだ取っていないことに気づくが、ホテルのレストランは正月期間で閉まっており、ナホトカの中心部までは少し距離がある。先ほど降車した鉄道駅近くに小さなショッピングモールがあったのを思い出し、旅人の嗅覚を頼りに飛び込んでみると、1階のスーパーマーケットはすでに閉店準備を進めているものの、地下でピザショップがまだ営業していた。ロシアに来てまでピザなのか、と我ながら思ったが、他に選択肢はない。ただその味は悪くなく、ボリューム的にも満足度が高い。店内の奥のテーブルには地元の高校生か大学生だろうか、6人ほどの若い男女が楽しそうに談笑している。ほぼ全員が、多くの日本人が漠然とイメージする西ヨーロッパや北ヨーロッパの人々に近い、背が高く碧眼で、ブロンドの髪という容姿である。ピザを齧りながらコーラを飲み、若者たちをぼんやり眺め、「さて、ここはどこだ」と一人苦笑いした。


港、湾、そして日本海


翌朝は快晴だ。真冬の弱々しくも明るい光と氷点下の空気が、屋外を歩く体を引き締めてくれる。積雪は数センチといったところか。昨日列車を降りた駅は、ホテルが立つ丘から下った場所にあり、そこから先には複雑な形をしたナホトカ湾が広がっている。眼下に続く岸壁には巨大なナホトカ港が見える。そこから歩いて数分の場所に、「日本石庭」と「姉妹都市友情の石」があった。石庭は福井県敦賀市がナホトカ市との姉妹都市提携1周年を記念して1983年に建てたもので、日本風の屋根を持つ休憩所やベンチなども設けられている。

記念碑には「両市の平和と友好の強化を期して」この庭を贈る、との文言が日本語とロシア語で刻まれている。そして友情の石と周囲の公園は、こちらもナホトカの姉妹都市である京都府舞鶴市が1978年に建てたものだ。大きな石にはロシア語と日本語で「日本海が永久に平和と友情の海であるように」と刻まれている。いずれも街中心部の外れにあり、訪れる人は多くないようだが、それらは高台にあってナホトカ湾とナホトカ港に向き合い、その先の日本海と日本を遠望するかのように建っている。

近くの展望ポイントからは、さらに湾を広く一望することができた。かつて13年間にわたって、引揚船があの舞鶴港に向けて出港した場所である。周囲の自然などの姿は当時からあまり変わっていないのではないだろうか。さまざまな事情を持つ多くの日本人が、想像を絶する失望と日本に帰郷する思いを抱え、この場所から舞鶴に向けて船に乗ったのだ。

一人の旅人としてこの地に立っても、ここが苦難の旅の通過点であり歴史の一部であることをどれだけ理解できているのか、自分が勝手に当時の人々の体験を想像することに意味があるのかは、正直よくわからない。ただ、このナホトカの街が時代のうねりの中で日本と日本人に大きく関わってきたという事実があり、また、おそらくそれがこれから忘れ去られていくだろうことは分かる。今、旅の先人たちが辿った道を知ることも、旅人である自分がすべきことの一つだろう。そう考えて、市街中心部に向かって歩き出した。

このナホトカはソ連時代、閉鎖軍事都市ウラジオストクが1991年に開放されるまで、極東ロシアを代表する(日本を含む西側諸国への)海の玄関口であった。長らく横浜港からソ連の貨客船の定期航路があり、ここからシベリア鉄道でモスクワ、そしてヨーロッパに向かうのが、1960年代ごろのバックパッカーの定番ルートだったのだ。それは現代も読み継がれるさまざまな小説や旅行記などにたびたび登場する。当時の若者たちは、世界を目指して、横浜からこのナホトカに上陸した。その点でも、このナホトカは、日本と日本人の旅にとって、多くのつながりを持つ土地なのである。

現在のナホトカは人口およそ20万人。海と森に囲まれた商港都市で、複雑な地形の湾に沿うように道路や建物が立っている。ロシアの小さな田舎町という風情には収まらない、穏やかで美しい景観が広がっている。海に面した巨大な港や貨物バース、そこに引き込まれている鉄道施設、それらに隣接する整備された商業地域や居住地域の街並みなどからは、ウラジオストクやハバロフスクとはまた違う、かつての国際ゲートウェイ都市としての洗練と品格が感じられる。カフェなどの店舗は比較的少ないが、必要最低限のものが十分かつコンパクトに揃っている。近年は日本のビジネス進出も増えているそうだ。

街をぶらぶらと歩き回り、その妙な優雅さと余裕のある雰囲気に感心しながら、最後にMBUKナホトカ博物館・展示センターに立ち寄ってみた。古代からのこの土地の歴史を紐解く展示が控えめに続く中、19世紀ごろの展示に、ナホトカには現在のフィンランドからの移住者が多いという記述があるではないか。当時の入植を率いたリーダーが、日々の暮らしの困窮ぶりをモスクワに訴えた手紙などが残されている。説明によると、当時の入植から100年以上たった現在も、ナホトカ周辺にはフィンランドをルーツにする人々と文化が息づいているという。

そうなのか。ロシアのシベリア開拓や同地域への入植政策(そしてその後の流刑や強制移住)の歴史については詳しくないが、日本からわずか数百キロメートルしか離れていないナホトカとフィンランドという、あまりに遠い2地点の明確なつながりに少しクラクラした。そして、ふと、もしかしたら昨夜、ショッピングモールの地下のピザショップでくつろいでいた碧眼ブロンドの若者たちは、そんなフィンランドをルーツに持つ人々の末裔だったのかもしれない、などとも勝手に思いを巡らせた。真相はわからないものの、世界の広さと狭さを同時に感じられる史実に接した気分である。

まったく知らない街であったナホトカが、戦争の歴史を軸に日本人と深くつながり、それが私の旅につながり、また別の歴史を知ることでフィンランドともつながる。やはり旅というものには、実際に移動した距離だけでなく、時間や情報などさまざまな「軸」があるようだ。それらすべてがまた、互いに深い関わりを持っていることが面白い。


バスでウラジオストクへ


ナホトカからウラジオストクへの帰路にはバスを利用した。鉄道での往路が約5時間かかったのに対し、バスの所要時間はおよそ3時間である。海沿いの移動ルートが内陸経由の鉄道に比べて短いこと(さらに鉄道が低速であること)、そして高速道路が整備されていることが、所要時間の差につながっているのだろう。

翌朝はウラジオストクの冬のお約束として、氷結したアムール湾沖合の氷上を歩き、厳冬の釣り人たちと目で会話をしながら、沖合から街を眺めた。これもまたここでしかできない、旅の楽しみである。


アエロエクスプレスで空港へ


帰国日となり、ウラジオストク国際空港へは空港鉄道アエロエクスプレスを利用した。ウラジオストク鉄道駅の出発エリアはメインの駅舎とは別の新しい近代的な建物で、そこからはモスクワなどへの長距離列車や中国・朝鮮半島方面などへの国際列車も発着する。ホームに出る改札・出発ゲートにはバーコードリーダーが設置されており、日本の新幹線改札や空港の搭乗ゲートのようである。車両は先日のナホトカ行きの車両をもう少し洗練させたもので、世界の大都市の空港鉄道と同様の雰囲気がある。ウラジオストクを出発して空港までは、まず、先日のナホトカ行きエレクトリーチカと同じ線路を走る。よって、車窓からは氷結したアムール湾を再び遠望できる。帰国直前にまたあの絶景を楽しめるとは、なんとも贅沢な空港鉄道である。

車窓を流れる美しい白銀の世界を眺めながら、今回のウラジオストクとナホトカへの旅を振り返る。ここで体験したのは楽しい旅に関するものだけではなかったが、人の動きや移動・旅というものが、形を変えても絶えることなく続き、それらが互いにどこかでつながっていることを改めて思い知らされた。旅の途中にいつも難しいことや世界の負の部分について考えているべきだとは決して思わないが、その土地に起きた事実、そこにいる人たちの歴史をわずかでも知ることで、自身の旅の体験は大きく変わる。それに気づくために必要なのは、静かなる観察と想像力だろうか。それはあらゆる人の移動や旅の本質の一つなのかもしれない。そんなことを考えながら、アエロエクスプレスを降り、ウラジオストク空港ターミナルの成田行きS7便のチェックインカウンターに向かった。

― 了 ―

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